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『石狩湾硯海岸へ接近中』の全文公開 連載第140回 第106章 思考がなぜかイタリアにずれていく

 私もさらに気分が高まっていって、頭の中で今度は「ナブッコ」(Nabucco)の合唱曲「行け、我が想いよ、黄金の翼に乗って」がイタリア語Va, pensiero, sull'ali dorate(ヴァー、ペンスィエーロー、スルラーリー、ドラーテー)のまま聞こえる。ヴェルディ作曲の、隷属からの解放を謳う荘厳な旋律である。この曲がイタリアで果たしてきた歴史的役割から、stato nazionale(スタート・ナツィオナーレ: 国民国家)という用語が想起される。YouTubeで見たことのある、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の指揮を終えたばかりのクラウディオ・アバド(Claudio Abbado)のイタリア語が耳に響く。その声は、わずか30代前半で医学部の教授に就任した俊英の医師が、大学附属病院内のカンファレンスの席で居並ぶ若手研修医らの前で患者の症例解説をしているような冷静さを帯びている。
 どの言語も、インテリや職人が話すと精彩さを増す。アナウンサーは言うまでもないが、一番美しいのはわが子の話すことばである。いつまでも聴いていたいぞ、父さんは(母さんも)。プー。
 枕を直す。部屋の中でスマホの画面だけが明るい。高かったのだこれ、512GBのにしたから。天井から、ひたいの35センチぐらい上の位置にぶら下がっている目覚まし時計の分針は、蛍光塗料でかすかに鈍く光っている。秒針は最初からついていない。プレゼントされた小6のクリスマスから使っている代物だから、ガキっぽいデザインである。あの12月はまだ父が生きていたが、腹部等の痛みに加えて、右腕はもうほとんど上げられなくなっていた。この時計の表面のシールを剥がした跡の接着面に昔のアイドル歌手の写真が貼り付けてあるが、すっかり色あせてしまって、まるで幕末期に撮られた侍の写真のようにも見える(「拙者、首が疲れ申した」)。このドイツ語で言えばWeckerを支えているバネは緩くなっているので、本体を引っ張りすぎて天井近くまで上げてしまうと勢いよく落ちてきて、寸止めにならずに顔に激突することがある。今日の天気は良さそうだ。ええ、慮(おもんぱか)りまするに、やはり歩く公序良俗と言われるわたくしの常日頃の行いが善良至極バッチグーなので、こうなるのでございませう。おなかもグー。
 ナブッコのメロディーが続く。全部の歌詞をイタリア語で暗記しているわけではないので、途中から楽器の演奏を脳で再生するだけになる。ローマは偉大だった。今のイタリアも様々な難題にも関わらず特別に価値のある国である。何しろ世界中の美術品の実に6割はこの一国にあるのだ。溜め込んだねえ、アウグストゥス。そのため、年がら年中、あちこちの絵画やら彫刻やら建物やらを修復し続ける必要に迫られている。例えて言えば、皿回しの皿が何十万枚もほぼ同時に相当回転が遅くなってきて、あと少しで次々と落下し始める寸前の切迫した状態が国中に満ちているようなものである。一瞬も油断も手抜きもできないのに予算が足りた例しがない。今の内閣は今年に入って2つ目だ。さあ、どーする? どうにもならないのがイタリアである。1年が過ぎれば、あの傘のような形の松が樹齢を1歳増やしているだけである。そのような危機にも関わらず生きている人々。バールは今日も早くからやっている。エスプレッソは今日も熱く、量が極端に少ない。
「もっと入れてくれよ」
「昔からこうだぞ」
 遊びに過熱気味に夢中になっている笑顔の子どもたちを含むそのイタリア人全員に敬意を表したくなって、柄にもなく厳かな気分になる。若きヴェルディがこの曲を発表し絶賛を浴びた後何年も経ってから、イタリアはようやく統一国家を樹立することになる。アバドの父親は、他ならぬこのヴェルディの創設した音楽院の院長を務めていた。
 リソルジメントの一方の立役者であったガリバルディの数奇な人生を思い出す。一時アメリカ国籍になってさえいたのだ、あの男。そのイタリアに限らず、19世紀半ばは後発資本主義諸国が国家統一を果たしたり、内戦に一応のけりをつけたり、版図に大胆な変更を加え(させられ)たりしていた駆け引きと駆け足と勇み足の熱き鉄と血と硝煙の数十年間であった。猫だましまであった。ニャーオ。世界各地の相互の暴力的なまでに強力な結びつきはますます加速していった。日本に開国はさせたが通商条約までは結べなかったペリーや、日本近海を含む太平洋の測量を担当したロジャーズの来航も、これら一連の歴史的事件の文脈で捉えなければならない。
 アレクサンドル2世が嵩んだ戦費の支払いに迫られてベーリング海の東向かいの凍てついた領域を若き共和国アメリカに格安で売却してしまったのも、ほぼ同じ時期であった。このときの国務長官はリンカーンに任命されたウィリアム・スワードであり、退任後の世界一周旅行(circumnavigation)で寄ったインドで、遠くボストンから輸出されていた氷を提供された。一方日本では、かつて函館の五稜郭で夏から堀の水を入れ替えてきれいにしておいて凍らせた天然氷が東京に移出されていた。国は違っていても似たようなことをしていたものである。ボストン氷と函館氷は競合関係にあった。氷は医療に不可欠だったため、驚くほどの高価で取引されていた。横浜のJefferson医師もいずれかの氷を使用していた可能性が高いが、一家の記録には残っていない。仮に交通の便が良かったら、平安京の清少納言は箱館の氷を嗜んでいたかもしれない。
「あてなるもの 松前より北前船で献上されたる かき氷
 あまづらならぬ うまづら すさまじ」
 このスワードがアメリカへの統合を当然視していたカナダも、ちょうど日本の幕末期に「建国」の時期を迎えている。独立記念日は1867年7月1日となっている。仮にアラスカが合衆国の飛び地になっていなかったら、露米の間に挟まれたカナダはいわば「ポーランド化」したのだろうか。
 再びイタリアに目を戻そう。地中海に突き出した20州からなるあの国には、各地方に深い魅力、底知れない陰影、そして歴史の澱がある。
「いいえ、イタリアが海に突き出しているのではなくて、国土の両側に海という『そり』が深く入っているのれす。誤解なきよう、そこんとこ、夜・露・死・苦、伊・太・利・亜」
 車はアルファロメオやフェラーリでなければじぇったいに嫌だ、という御仁たちもいるほどである。あんなに高いのにさ。
 しかもイタリア語自体も音楽的ですばらしく魅力的な言語で、クラシック音楽やファッション、デザイン、各分野の芸術、建築その他の多くの産業分野や移民を通じて世界に広まっている。世界中に常に熱心なイタリア語学習者がいる。同じ意味を表すのに必要な単語数がフランス語に比べてずっと少ないのに、ちゃんと意味が通じるのがイタリア語の不思議な点でもある。ラテン語の最も正統な継承者であるあの母音を多く含む言葉を聴けば、人はいつでも瞬間的に元気になれる。夏の高い青空を背景にして風に揺れ続けるポプラの分厚い緑の葉を見る時と同じだ。1秒かからずに脳に98%の充電ができてしまう言語、軽率なまでに自信と力と律動に充ち満ちた言語、それがイタリア語である。ビューン。
 トーマス・マンに傾倒し、生まれた帝都を離れて少数の俊英だけが進学していた旧制松本高等学校時代にのめり込んでいたドイツ語からその後フランス語に関心と努力の重点が移って、美術史家の妻と一緒にパリに何年もいた辻 邦生も、イタリアのことを少し考えるだけで瞬時に深い喜びに包まれるほどこの国が大好きだった。辻は、狭いアパルトマンに住んでいたこのパリ時代、手書きの手紙が送られてくることを毎日切望していたと述懐している。手書き文字には人格が現れる。悪筆で身のやり場のないあっし。
 その辻夫妻を水産庁の調査船で訪欧した際に訪問しているのが、ドクトル・マンボウ=北杜夫こと畏友・斎藤宗吉医師である。航海途中、マグロが大量に獲れながらワサビがなかったことを最大級の表現で嘆いていたこの東北大学医学部卒の船医は、シンガポール、コロンボ、アレクサンドリアなどを経て英仏海峡に到達し、フランスに上陸した。当時の貧しい敗戦国日本から訪れる同国は、多くの日本人が仰ぎ見る文化大国であった。ル・アーヴル港からパリ北駅まではS.N.C.F.すなわちフランス国鉄を利用した。セーヌ川に沿った路線を遡る旅であった。イル・ド・フランス盆地には世界中から草木もなびく。世界、そしてあなたの人生が目下どのようになっていようとも、パリは引き続きあなたの脳裏にあるあのパリのまま、You will always have Parisなのである。予約をしようとしても何年も待たされるホテルもいくつもある。パリに滞在するためにそのホテルに宿泊するというよりは、そのホテルに泊まること自体がフランス行きの目的のひとつとなっている。
 その様々な人種、民族が入り混じっているフランス国民や定住者の中でも、イタリア系は歴史的に独自の地位を占めてきている。ピエール・カルダンも、2歳のころ老齢の父親に連れられてフランスに移民したひとりであり、元の名をピエトロ・カルディンといった。転入先の近所のフランス人の子どもたちからは「マカロニ」とからかわれたのである。他にも多くの例がある。ナポレオンだってイタリア人みたいなものではないか。それにしても、モンパルナスにいたモディリアーニはなぜ顔の傾いた絵を描いたのか。おせーて(また脱線してしまった)。私も頭を同じ角度に傾けてみるが、はてな? 本人以外には理由は分からないな。
 ゲーテやスタンダールは言うまでもない。シェイクスピアが作品の舞台として、多くイタリアを選んだのはなぜだったのか。グランドツアーでどれほど多くの若きエリート(あるいは、そのなり損ない)たちがあの半島を訪れていたのか。いや、考えてみれば、ある国や地方の価値は単なる物理的な面積では測れない。当時のイタリアは、世界に対する影響力の巨大さから見て、今日のアメリカに匹敵する「大陸」だったのではないか。
 辻 邦生の端正なたたずまいを想い、自分のうじゃけたパジャマ姿を一瞬反省する。でも眠っていたんだから、よいではないか。

第107章 16歳、夏(ああ、遠き昔のあれやこれや) https://note.com/kayatan555/n/ne2b5e52ade85 に続く。(全175章まであります)。

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