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『石狩湾硯海岸へ接近中』の全文公開 連載第116回 第89章 達筆の代償 (前半)

 医師だった父は早く亡くなった。父というものは、いてもいなくても家族に深刻な影響を及ぼし続けざるを得ない。2年間氷結川医大(The Frozen River College of Medicine)で教授の講義の下準備をさせられていたが、毎晩午前2時過ぎまで電顕(電子顕微鏡)を覗いてデータを集め、授業中の冗談まで用意してメモを貼り付けてまでして仕えたのに、助教にすらしてもらえず、教授と同じ全国的にも著名な高校出身の子飼いの研究者をいきなり准教授として引っ張ってこられてしまった。この准教授は父より数歳若かったため、これで、父がその教室で出世する可能性はゼロになってしまった。
 そもそも、その教授は判読不能の悪筆であった。それに対して私の父は、利き手に怪我をした後でもなお、一般人よりはるかに字が上手かったことから嫉妬され、そこから始まって、父はやることなすことにケチを付けられるようになって行ったのであった。人生の不運はどんな一見些細なきっかけから始まるか分からない。「丸原先生。それは私に対する当て付けですかな。そんな見事な字をすらすらと(effortlessly)ホワイトボードに書かれて」
「いえ、そんな。子どものころから、特に意識して字を書いたことはありませんが。これが私の普通の字です」
「私は小学校の2年生から、近所のお寺の書道教室に通わされてこの字なんだがね。一生懸命書いているのに何度もあの薄い板で肩を叩かれたんで、中学生の時に一回大雨の夕方を狙って、あの坊主を袋叩きにしてやったんだがね。キミ、わしが何も言わんとも、わしのいる所ではへりくだって字の質をわしの字より微調整で下げてくれんかね。日本の美風、忖度を知らんとはキミもまだ若いね」
「はあ、そのようにさせていただこうとは思いますが」
「キミね、医学部っつうもんをどう捉えておるのかね。大学のいろいろな学部の中でも法学部だの文学部だのはおまけだ。あんなものはなくしてしまっても誰もまず困りゃあせんて。法学部だけを取っても、日本人は法律なんてなくても立派に秩序を維持しているぞ。憲法の判例なんて誰も詳しく覚えちゃいないが、回覧板なら一応目を通しておくじゃろう。町内会の中の予定さえ知っていれば波風立てずに暮らせる。犯罪も国際的に見ても元々少なかったのが、さらに減っている。
 多分これは日本に欧米流のsocietyつまり社会が存在していなくて、代わりに世間という基層があるからじゃないかな。社会から成っている国や領域では、人間の集団に規律をもたらすためには法律を制定しておく必要がある。だが、そうした社会なるものが存在しないか、存在していても弱いと、世間という、より威力がありながら掴み所のない魔物が真空の中で前面にせり出してくる。現に英国社会より日本世間の隅々に貫徹した縛りの方がよほど強力じゃ。ただし、世間は日本人の間にしか存在し得ないから、多民族化が進めば、この国は今までのおにぎり状態から砂礫に水をかけて凍らせでもしない限りまとまりのつかない状態に移って行くじゃろうな。溶けてしまえばアジャパーじゃ(何ですろ、それ?)。
 理学部は不可欠だが、いつ、どう役に立つか分からない基礎研究に金も時間もかかりすぎる。
 それに引き替え、直接目の前の患者さんの命を左右する我ら医学部こそが、どの国でも時代でも社会の中心、エリート中のエリートなんじゃよ。医師で国会議員になる例も珍しくない。だからこそ、国家存亡の危機にあったオランダが、ドイツの医師一族のエリートだったシーボルトを抜擢して高い位を与えて送り込んできて、資金も豊富に提供したんじゃよ。シーボルトは大活躍をした。優秀な医師だったから鎖国の下でも幕府から特例を認められた。出島を出て診療をするにとどまらずに、日本人塾生らに講義をしたり、オランダ語で論文を書かせて居ながらにして日本に関する広範囲な博物研究に役立てたり、膨大な植物標本を収集・作成したり、氷河期の影響で植物相の貧弱だったヨーロッパへ生きた日本産植物を数多く紹介・導入することも可能になったんじゃ。他の分野の専門家だったら、オランダの日本活用はあそこまでうまくは行かなかったじゃろうな。
 都市や地域の価値は地元の医学部の数で簡単に推測できる。中京圏は4つあるのに札幌は2つじゃ。だから、名古屋は札幌の2倍の価値がある。いや、2の2乗とすると4倍になるな。こっちの方が実感に近いじゃろう。札幌の主要産業が何と何か誰か答えられる人間はいるか? 函館が中都市ないしさらに大都市になる可能性はゼロじゃないが、そのためには医大を新設する必要があるじゃろう。函館の既成市街地に土地を確保するのは難しいだろうから、いっそ、すぐ北の大沼公園の中に斬新なキャンパスを作ったらいいんじゃないかな。名前も函館医科大学じゃなくて、大沼公園医科大学というのが受験生に強烈にアッピールするじゃろうな。
 その医学部の中でも、教授職まで勝ち上がった医師・医学博士は一国の国王に匹敵するのじゃ。えへん、えへん。キミはVerbeugung(フェアボイグング)がなっておらんねえ」
「それはドイツ語ですか」
「お辞儀という意味じゃよ。それにそもそもだな、キミのその関西弁アクセント何とかならんのか。耳障りなんだよ。私がマスコミやなんかで、とかく方言のきつさでからかわれることの多い地方出身だというのをバカにしていないかね」

第89章 達筆の代償(後半)https://note.com/kayatan555/n/n2433eb2829ed に続く。(全175章まであります)。

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