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『石狩湾硯海岸へ接近中』の全文公開 連載第27回 第23章 霧曜日、キミに出逢ったあの夜

 関東一円晴れ渡った日だったのに、いわば目眩ましを使って周囲の視界を遮り、その間に忍者屋敷の隠し扉を一瞬だけ開けてボクを異空間の中に招じ入れてしまうかのような真似をしたのは、東京のことを上目線でバカにしている横浜のイギリス人クォーターのコだった。
 気の強さと口の悪さが極めつきであることが、その後数ヶ月を待つまでもなく、その夜だけで十分判明することになった。池波正太郎も、『散歩のとき何か食べたくなって』の中で、横浜の「若い女たちの明るい、奔放ともいえる言動と人懐っこさ」と書いている。札幌の女たちにも似たような傾向がある。いや、むしろ北の方が一層はっきりしているかも知れない。
 私は入学してほどなく、このコに一気に振り回されて、北斎の「神奈川沖浪裏」(Great Wave off the Coast of Kanagawa)に描かれた押送船の危うい姿勢の漕ぎ手や客のような思いをさせられて行くことになった。北斎も魅せられたあの紺青、ベロ藍と称されるプロイスィシュブラウに彩られた私の首都東京での「藍の時代」が始まったのだ。ジャーン!
 そのコは、その日もカメラを持参してきていた。サイズは小さいけれどもレンズの高性能で知られるカメラに似ていた。だが、前面のブランド名が一部指先で被われて語尾のonしか見えず、これではNikonなのかCanonなのか分からなかった。まさか、Come onでも、有名な日本酒の名前でもなかっただろう。高校時代にすでにカメラ専門誌に作品が掲載されていたのだそうである。それも、アフリカの黒人男性をモデルにした、照明で青っぽく光る肌のヌード写真だそうである。ある名門医大の2年生だったが、その都心にある大学の入学金と授業料は貧乏人はそもそも受験を発想できない高さであった。入試で英語は楽々と満点だったそうである。これはちょっとズルいよねえ。
 幕末期にカティーサークと同じ設計思想で建造されたクリッパーでイングランド南部のプリマス港を出港して来日したのだが、水切りのように各地の英国植民地に寄港してきて、熱帯を通るときにマレー半島のペナンで罹ったらしい病気で衰弱していため、もうこいつはどのみち助からないだろうと決めつけられて、本国にも上海にも連れ戻されないまま日本に置き去りにされた見習い医の子孫である。その名をJefferson(ジェファーソン)といったこの若き医師は1年以上かかって辛うじて健康を回復し、そのまま日本に定住することになった。どんどん増えていった居留外国人を中心に相手をする開業医をするかたわら初期の医学校数校で教鞭も執り、内科学の他、英語も教えた。
 この英日両国の血を引く医学生は、新鮮な生き血を見てその匂いを嗅ぐのが大好きなので、断然外科に行きたいのだそうである。天才マンガ家・谷岡ヤスジの親戚筋なのだろうか。そう言えば、ヘミングウェーの父親も外科医だった。維新から150年経ってもいまだに家族の誰ひとりコーヒーは口にせず、港を見下ろす丘の斜面の洋館で執事が恭しく銀のお盆で運んでくる紅茶とスコーンの生活である。
「あなた、これ温度が2.1度違うわよ」
 ボクらの周囲は青じそやケッパーやオリーブオイルの香りがしていた。カルパッチョなる簡単に見える料理が切れ、再び、アスパラガスのベーコン巻き、チーズ、刺身盛り合わせ、細めのパスタ、焼き鳥、揚げ出し豆腐、ケール入りサラダやらなにやらがほぼ連続して運ばれてきた掘り炬燵のテーブル越しに、このコはボクに日本語で話しかけてきた。それも、無断でボクの写真を撮ろうとカメラを構えてである。と言っても、別にピンクの衣装でけたたましく笑い続けていた訳ではない。気のせいか、レンズは少しぼやけて見えていた。
「あなた、今ガールフレンドいないでしょう。そんな雰囲気よ。チョー可愛いわ」
「新千歳空港のラーメン屋で木綿のハンカチを先渡ししてきたから、今はフリーだよ」
(「フリーになんかさせないわよ。ふっふっふ。モモンガの格好で低空滑空して、あなたの部屋に飛び込んでやるわよ」)。
 ボクはビールからレモンサワーに切り替えていた。グラス表面には水滴がついていた。初めて飲んだのはすすきののあの店だった。

第24章 高校、すすきの、卒業仮装(前半) https://note.com/kayatan555/n/n9dd2e9e5dbc5 に続く。(全175章まであります)。

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