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『石狩湾硯海岸へ接近中』の全文公開 連載第154回 第120章 古石狩湾、杉で閉じ込めた異界

 かつて江戸湾に注いでいた旧利根川は洪水が多かった。その対策に加え、東北から大量に供給されてくる物資を大消費地・江戸に難破の多い浦賀水道をなるべく通らずに運搬するために、関東一円の河川流通網で舟が水路を行き来するのに十分な水量の確保を狙って、流路を銚子方向に付け替える工事が30年以上かけて行われ、完工したのは 1654年だった。
 一方、古石狩川はかつて南側の太平洋側に流れていたが、その西側の火山群の活動によって流域が埋め立てられて行き場を失ってしまい、「あたしこれから一体どうしようかしら。ねえ、あなた、おせーて。お願いっ」と言ったかどうかは分からないが、大きく北側に進路を変えて現在のように河口が日本海に面するようになった。とは言え、地形から見て、さらに反対方向のオホーツク海に向かうようにはならないであろう。
 現在の札幌市の北半分、江別市、岩見沢市あたりは古石狩湾で、海だった。道路網建設が初歩的段階に留まり、水運に大きく頼っていた明治初年に、北海道の「大府」は札幌ではなく対雁(Tsuishikari)、現在の江別に置かれる可能性もあった。石狩川と江別川(現・千歳川)の合流する江別は、幌内の石炭を小樽・手宮まで運び出すために建設された鉄道とも交差することになった。
 ここ北海道を大袈裟に「世界最小の大陸」と形容することが許されるなら、その最高峰の大雪山系にある石狩岳を源流とする石狩川は、ライン川にも、ミシシッピ川にもなぞらえることができるだろう。ライン川とすれば、旭川、美瑛、富良野が連なる上流の上川地方がスイス、中流の空知地方がドイツ、フランス、そして下流の石狩地方がオランダである。オランダでは低地の干拓に先立って、まず地表の泥炭を取り除いたが、石狩でも泥炭を煉瓦状に切り出して燃料にしていた。また、樺戸集治監(The Kabato Collective Penitentiary)と石狩の間に外輪船が運航していたので、世界各地の他の河川とも共通点はあるが、代表的なアメリカを例に取れば、なだらかな大平原を南北に貫流するミシシッピ川に相当すると言えよう。この後者の場合には、河口の石狩にあたるのがニューオリンズである。すると石狩鍋はケイジャン料理に相当することになるだろうか。
 あなただけに打ち明けるのだが、実はこの石狩湾北部沿岸の一角には江戸時代末期の1845年、ちょうど武四郎が最初の蝦夷地探査をした年のお盆以来恐ろしい伝承があり、そのため地元の人間は21世紀に入ってもなお恐懼し続けていて、この土地に一切近寄らない。幕命で、その場所の目印として安全な範囲との境界線上に津軽藩から購入した杉の苗が119本植え付けられた。150本注文しておいたのだが、一部が運搬途中で枯れたり、望郷樹としてどこかに横流しされたりしたらしく、31本も減ってしまっていた。これらは本来の地元の植生にはない外来樹であるが、手入れが良かったのか、大半が生き残ってすでに大木になっている。私たちが入手できた旧小学校は、その土地に近接しているのだ。だから、不自然な経緯で在校生が減ってしまい、廃校にまで追い込まれたのかも知れない。また、同様の理由から我々が格安で落札できたのだろう。なお、その伝承の内容は性質上「よそ者」には危害が加わりようのないものであるので、私たちは屁とも思っていない。常在菌のように幽霊の住み着いているうちの寺の方がよっぽど怖いと言えば怖い。
 海からはどうか。これも、この伝承とその後付随的に発生した民間信仰で、この曰く付きの土地が凶相の地とされているので、漁師はもとより、地元の不良連中もまるで何かの菌がペニシリンに溶かされたように、隣接した海岸からある距離以内には決して近づいてこない。小型潜水艦もないし、結局、陸も、海面も、上空も、ぼくらの高度に自由なスポーツ活動を妨げるものは皆無なのだ。
 地下鉄南北線北端の麻布駅からエスカレーターで接続して、ハマナス市役所の近くで大きくカーブして北に向かっている一部高架の石狩北部海岸鉄道は単線の私鉄であり、一番海岸線に接近している箇所で波打ち際からほんの30メートルも離れていない場所を暑寒別岳の南側まで走っている。増毛まで延長するべしとする提案はまだなされていない。この鉄道を使って硯海岸に近い駅で下車することも可能であるが、私の自宅からはやはり車を使った方がはるかに便利である。近年は利用客数が激増し、しかも観光客の比率が9割近くになっている。一見有り難いが、経営の健全性、安定性から見ると望ましい傾向ではない。客層はなるべく多様に分散させるべきなのである。車内では英語、中国語、日本語の順でアナウンスがある。今後、インドネシア語、フランス語など他の言語を加えるか否かは未定である。
 この海辺の艇庫で、ぼくらは完全に自覚的な自治を貫いている。つまりその意味するところの核心は、無理をせずに肝臓を痛めない程度の飲酒を続けているということである。旧小学校校舎、体育館、車庫、物品庫(保存食品と、「実弾」つまり酒が多種大量に貯蔵してある)、燃料庫がある。我々仲間の共有地である旧学校林と隣接する他人所有の牧草地の境界付近には、かつて児童用に標高7.1メートルのスキー学習用小山までしつらえてあった。この夢の大地は、硯の表面のように滑らかな南北にずっと続く砂浜に接している。少しだけ岩のある場所には、アメリカ英語でtide pool(タイドプール)、イギリス英語でrock pool(ロックプール)という潮だまりができては消える。駐車スペースは7台分ある。この艇庫と敷地の面積は1.4ヘクタールほどもある。我々ヨット仲間は、これをわずか1,700万円弱で手に入れたのだ。どうだ、これが北海道の豊かさだ。参ったか。
 今日と明日の二日間連続で船底のフジツボの除去と、洗浄、放置乾燥、ペンキ塗り2回の一連のメンテナンスをする予定なので、作業用にメガネやスクレーパーなどを揃えて持って来ている。小春ちゃんは自宅でも小学校でも掃除魔である。何もかも清潔にしておきたい。フランケンがテーブルの上にリモコンを斜めに置くだけで「パパ!」と叱る。ヨットの船底の無残な汚れ方を見たらどんなに興奮するだろうか。
「今日これきれいにするまで小春帰らない」
 久し振りに仲間が10人程度集合するのだ。体のある部位が自慢(嗤うべき錯誤による。実際には本人たちが思っているほどのインパクトはない。「小せえ、小せえ」)の男が二人いて、すぐに裸踊りを始めるので、その症状が始まりそうになってしまったら、小学生レディーの目を押さえなければならないだろう。
 北海道のどこでも、まだ薄明かりでほとんど空いたままの道路を突っ走る快感は止められない。車に乗らない連中の神経が分からないな。こんなに身近で面白い道具はないだろう。
 遠くに、行ける。
 早く、行ける。
 歩いてなんかいられるかよう。アクセルを踏みタイヤが回転して行く感触を知ってしまうと、もう元には戻れない。こうしてスピードを緩めずにドライブをしていると、草原をバレリーナのように走るシカの群や、痩せたキツネが1頭、2頭目に入ることがある。逆立ちしながら歩いているクマがいたら、どこかのサーカスからリストラされたのであろう。思わず鼻歌が出る。
 ところが、である。寝坊せずに暗い中起き出して、こうして約束通りに海岸に向かってすべて順調に進んでいたのに、支障が生じてしまった。フランケンが、「実はな、2月ぐらいから右腕と右手の腱が痛むようになってるんだ」と言い出したのである。
「子どもたちにスキーを教えに留寿都に4泊して、普段は使わない筋肉と腱を毎日酷使したからだろうと思ってたんだけど、その後2回も温泉に行っても直らないんだ」
「早く言え」
 聞いてみると、私の父の致命傷となった症状と重なる部位だったので、大いに気掛かりになった。そこで用心して運転は途中から私が代わった。お客さん、メーター倒していいですか。いや、今は倒さないんだったな。小春ちゃんは無邪気にパパの運転が下手だと言ったが、運が悪ければ、運転をする能力自体を喪うかも知れない。それどころか、医師業を続けられなくなる危機さえ排除できなかった。そこまで極端な推論をしてしまうのには理由がある。

第121章 父の死の秘密 https://note.com/kayatan555/n/n5d883c8d4de2 に続く。(全175章まであります)。

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