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『石狩湾硯海岸へ接近中』の全文公開 連載第64回 第52章 思いもかけていなかった大被害

 子どものころから祖父に剣道を習っていたボクは、思わずこの学生の首を真剣でスパッと刎ねてやろうかと思うほど腹が立った。書物は神聖である。余裕に乏しい学生生活をしながら何度も迷ってようやく手に入れた本ばかりであった。その本を、ノートを、資料をこの女は酔っ払って台無しにしたのだ。
 座はいっぺんに白けた。DHO(泥酔、放屁に嘔吐)である。あり得ない災難である。放屁2回に嘔吐1回なので、H2Oになったのだ。そのまま気楽にどうでもいいお喋りをしながら鍋を囲むことは無理になった。大岡山に行くはずだった学生は、片手を伸ばして拳銃を前方に発射して銃口の煙を吹き飛ばす仕草をしながら(吸ったらアホ)、頬を膨らませて溜息をついた。はとこって、親戚とは言ってもかなり血のつながりは薄いのである。と言って、他はボクも含めてまったくの他人でしかなかった。さあさ、遠戚さんよ、このコの縁者はあなたひとりなのだよ。頼むから助けてちょうよ。
 すると、奈良県出身の幼稚園から高校を出るまで皆勤賞だったという学生が立ち上がったと思ったら、肉ばかりさっさと箸で拾って口に入れて、あっちっちっ、ふっふっふっ、と言いながら、「オレ悪いけど帰るわ」と言い出してしまった。おいおい、助けてくれよ、こんな修羅場、ひとりでも減ったらやってられないよ。
「こいつ2時間も休んでいれば、少し楽になるんじゃないかな。後はよろしく! オレ明日は朝からバイト、引越会社のな。冷蔵庫重たくて腰傷めそうになったら、窓から放り投げてやる。下に向かって、おーい、ヘディングするなよ、そこよけてくれって言ってからな。そういう時、英語で何て言うか知ってるか? Below there!って言うんだぞ」
 この泥酔女子学生は、さっさとタクシーで帰ればいいものを、運の悪いことに、同じ外国語専攻の学生の説明で、住まわせてもらっている親戚のうちが遠すぎることが分かった。はとこ氏も、「さっき聞いてびっくりした。そんな不便なとこに住むんだったら、田舎から出てきている意味がないって思ってた」と言った。まだ他人事の口のきき方である。誰かが同乗しないと、道を指示することができそうもなかった。お金が間に合うかどうかも怪しかった。すると、別の一人が気安くこう言った。
「浄、お前、ミカンちゃんこのまま泊めてやれよ、よくあることだよ(あったら困ります)。ふたりで介抱してやったらいいんじゃないか(「えー、拙者、薄い遠ーい関係のただのはとこなんっすけど、帰っちゃダメっすか」)。オレは2浪しちゃったけど、この子地元の女子校から現役で来てるから、まだ酒の飲み方のピッチが分かってないんじゃないか。それに実家は豪農だってよ。しかも、父親は県議会議員、おばさんは国会議員ときてる。婿に入って丘で瀬戸内海の船見ながら農作業やりゃいいんじゃないか。案外今はそういう生き方が一番生き甲斐があっていいんじゃないか。展開具合によっちゃ、浄が国会議員になるかも知れないぞ。もしそうなったら、議員会館にいっぺん泊めてくれよ。館内で超党派のグランピングやってみたいな。出入りするときに衛視から敬礼されるかな」
(おいちょっと待ってくれよ、飲み方が分かってないってどうすんだよ。人生論なんてやってる場合じゃないし)。
 女の子たちも、まだ鍋の中に入っている分の料理や未調理の食材や酒はトカゲの尻尾として切り捨ててさっさと逃げたかったらしく、さほど遠くない場所に住んでいても、それぞれの自分の住まいにこの学生を連れて行こうと言い出す人間は一人もいなかった。尻尾を切り損なうと、本体に危害が及ぶのである。痛そう。ほとんどみんな奨学金の多額の借金を含め、大変な生活をしている。しかも、入学したらすぐに外交官試験や就職や大学院進学や留学の心配をし始めなければならない。何という世知辛い国と時代だ。他人のことなど構っていられないのだ。オレたちが恵まれていたのは、合格発表のあの日たった一日だけのことだったのか。
 結局、この酔っ払い学生とその血縁の薄い遠戚学生をこの部屋に残して、他の仲間たちは調子のいい笑顔であっと言う間に階段を降りて行ってしまった。
「今日は楽しかった浄。また明日。ゼミに遅れないでね。ごめんあそあせー」
「待ってくれー。オレたち、友だちじゃなかったのか?」
 ふん。世の中こんなもんよ。通路のサボテンたちよ、余は厳かに出動命令を下す。一斉に地上に飛び降りて、あの連中を追って行って、いきなり後ろから抱きつけ。逃げて行く奴には、小さな芽を手裏剣代わりに投げつけろ。
「いてー」
 こうしてボクはまだほとんどどんな人物かさえ知らない男子学生と協力してこの女子学生の面倒を見させられることになってしまったのだが、問題はこれで終わりとはならなかった。ボクが反吐を掃除してシンクで雑巾を洗っていたところ、「あ"ーっ」という大声が聞こえた。少し遠くからのように感じた。

第53章 どうするこの惨状 https://note.com/kayatan555/n/n0a80101bb1ca に続く。(全175章まであります)。

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