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『石狩湾硯海岸へ接近中』の全文公開 連載第153回 第119章 チョウザメの川を横切って北へ

 札幌市の西には小樽市が、北にはハマナス市が、東には江別市が、南東には北広島市がそれぞれ隣接している。その中のハマナス市の石狩川河口では、まれではあるが現在でもチョウザメが見つかることがある。石狩湾はまるでカスピ海なのである。地元の神社にはチョウザメが奉られている。伊勢の人・松浦武四郎は1845年から1858年まで6次にわたる蝦夷地踏査を行った際、著作『手塩日誌』に「潜龍沙魚(ユウベ)」いう名で触れているチョウザメを各地の河川で豊富に目撃した。その『石狩日誌』には、海岸から遠く離れた島の中央部にある旭川近郊の神居古潭でさえ、武四郎を迎えた地元の長老アイヌが体長4尺(1.2メートル)もの大きさのチョウザメを捕らえて一行に供した記録がある。
 ちょっと待って。チョウザメがいるということは、キャビアが採れるということだ。何とか艇庫周辺で手に入れられないだろうか。以前、フランスに出張する際に、パリ行きの便が大幅に遅れて出発したために、そうでなければ乗り継ぎのために2時間未満待つだけで良かったのに、モスクワで1泊させられてしまう災難に遭ったことがある。その時にシェレメーチエヴォの照明不足で薄暗く冷え冷えとして淀んだ空気の空港ビル内の一角にあった売店で、キャビアが売られているのを見かけた。しかし、疲れていたし、自分には関係のない何とも贅沢な商品と考えて買わなかった。売り子がまったくやる気のない態度だったのも大きい。だが、1個ぐらい話の種に買ってくれば良かった。小さなガラス容器にキリル文字が書かれているだけで飾りとしても面白いし。(ただし、こういう価値観は要注意である。警戒しなければならない。そうでなくても持ち物は増える一方であるから。本はどこに置いたらいいのか。そのうち、自宅でも潜水艦の中を歩くようになるぞ。スパイへの秘密指令を録音していたテープのように、要らなくなった物が、人間の新たな作業なしに自動的に消滅する、という風にならないだろうか。でも、そういう風にあっし自身も消えてしまったら恐いな。何しろ不要不急のあっしだからして)。
 1324年の英国法では、領海内で釣られたチョウザメは国王陛下の所有するところとする、と定められていて、その後この法律が廃止されていないため、700年後の現在でもgood law(有効)なのだそうである。
 かつて、石狩川の渡し船が通れない厳冬期に、河口付近の本町と八幡町、少し上流に上がった生振村と茨戸の間の2箇所で氷の橋が作られていた。ドイツ語に訳すとEisbrückeである。流れてくるシャーベットのような氷を線状にして両岸を結び、上に雪を乗せ、柳で補強して雪を足しては水を撒いて凍らせた上で、また雪を重ねていって通行に供していた。ぼくらの車は、そのような危ない橋を渡ることもなく(またまたドイツ語で恐縮だが、「薄氷を踏むようなことをする」は、sich aufs Eis begebenという表現である)、左右の川面を見ながら逆V字型の主塔2本と斜めのケーブルで支えられた河口橋を通り過ぎて、南北に石斧を立てたような形のハマナス市を日本海沿いにかなりのスピードで北に向かって走り続けて行く。
 人が少ないのは気分が良い。制限速度を無視してアクセルを目一杯踏んで突っ走り、ドアの両側に翼を突き出せば、離陸して滑空して地上を見下ろすことさえできるのではないか。六本木から葉山に向かう途中での出来事を思い出した。札幌という日本人移民を中心とするすでに人口過剰の街から離れるほどヒトは自由になって行く。人類進化の逆を行くのである。「ネアンデルタール」人の反対読みだとすると、「ル・ー・タ・ル・デ・ン・ア・ネ」化して行くのである。タールとはドイツ語で「谷」を意味する。その反対は「にた」である。そこで、車内の全員、夏の喜びに思わず表情が「にたー」となっていく。あ、やっぱり小春ちゃん、芝居を打ってたな。
「ちーがーうーっ。今目覚ましたの。パパ最近運転下手だから」
「えー、そんなことないっしょ」
(広島県人会の幹事なのに、札幌生まれの娘に合わせてすっかりこっちに土着化して、北海道人の訛りが口をついて出るようになったのじゃな)。
 この「パパ」は娘から蜂の一刺しをされると、その場でカメのように首を引っ込めて、布団を被って寝込むほど落ち込む。
「こんなオレなんか、生まれてこなきゃ良かったんだ。うじうじ」
(ふん、パパなんてきらい。だ・い・ー・き・ら・い・ー・っ)。
(わーん)。
 車の左側つまり西の方に直接海が見えるのはまだ先である。「日本海」はロシア語では「イポンスカヤ・モーリェ」に近い読み方をする。アメリカもロシアも大国であるため、それぞれの国の少なくない国民が、外国人の話す標準から外れた発音のアメリカ英語、ロシア語に慣れている。だから、このカタカナ読みの発音でもたいていのロシア人がその意味を解するであろう。
「ダー、パニマユー」

第120章 古石狩湾、杉で閉じ込めた異界 https://note.com/kayatan555/n/na16e9263b7a2 に続く。(全175章まであります)。

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