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『石狩湾硯海岸へ接近中』の全文公開 連載第88回 第71章 海戦本番

 いよいよレース当日がやってきた。日の出は午前4時46分38秒である。室蘭の南ウィングに当たる半島部の肘の位置にある地球岬からは朝焼けを見ることができる。毎朝、新しい希望が東の空からやってきて、イタンキ浜を、トッカリショ浜を、金屏風を照らす。L字型に突出した陸地の馬の背に当たる部分からは、南には海(太平洋だど)、北には港と大橋、そして緑が見える。艇内の野郎どもはまだ寝たふりをしている。
 迷惑なことに午前5時55分55秒に55発もの花火が鳴った。Go, go, go!ってか。うるさいでござる。今回は32艇が参加している。直前に主将ともうひとりが急病になり参加を取り止めたチームもあった。残念である。いかばかりの苦しい訓練をしていたのか。スタート地点の室蘭西港には、スポーツ庁長官だけでなく、国土交通大臣もやってきた。大臣は千歳ではなく、昨日空自八雲基地に小型ジェットで乗り付けて、時計回りで内浦湾を視察してきた。この湾にはあちこちにレンタルヨット店舗を設置できそうな適地がある。試合開始は午前9時25分である。日本であるから、最大でも5秒以内のずれで日程が進んで行く。開会式の席で、今年度のテーマ曲が、マリーナ周辺の高校4校の共同オーケストラで演奏された。ええ曲や。
 スポーツ庁長官が、散弾銃を模したピストルを空に向けて号砲を放った。
「いてまえっ!」
 用意ドン! レース開始である。
 本部認可のない海賊ドローンもきっとどこかから入り込んで撮影を試みるだろう。その場合には、ドローン同士の空中戦をして違法機材を撃墜しなければならない。正義は我らにあり。
「ピューン、ピューン」
 我々は自前の極めて単純な原則に基づいてセーリングのレースをしている。「海が好きな人間同士の相互扶助精神とヨットレースの公正な慣例を尊重して、決まったコースを走って帰ってくれば良し」、というだけである。参加艇の大きさ、1艇ごとの乗員数からして規制がないのだ。どれだけ巨大なクルーザーでもOKである。そのため、かなり無政府主義的な展開となりそうではあるが、これまで特に大きな問題は起きていない。各チームは指定コースから時に大幅にずれながらも必死にヒールやヘルムへの対処を繰り返し、一瞬の隙を突いて対戦相手らを出し抜こうと足掻くのだ。
 我々の艇の右横を新造船のカタマラン(双胴船)が片方の船体を完全に宙に浮かせながら、右に急旋回して行く。犬が電信柱に片足を上げるのと同じ姿勢だ。猛妻や上司から即刻帰宅ないし帰社せよとの指示がメールで届いたのだろうか。
「一大事〜」
 浮いた方の船体には、ゴーグルをしたマスコット犬が乗せられている。危ないな。カモメに掠われないか? 鷲だっているぞ。深紅の船体が美しい。波間に船名が読み取れた。変な名前だ、クエスチョンマークで終わっている。「見逃して紅(くれない)?」だと?(「別にいいけど、なんぼ出す?」)。密入国者グループか? そう言えば、乗員全員がすっぽりとキリンのマスクで頭を隠している。顔が長くて恥ずかしいのか。
 近くの中型ヨットの艇長は空模様を見て強気になる。丸木舟の後尾を切り落としたように見えるオープントランサムのクルーザーは、船尾からすぐに乗り降りできて便利である。表面が堅くつるつるになって白く光る雪道を低速で走る馬そりに、後ろから、朝通学途中の小学生が「おじさん、乗っていい?」と言いながら笑顔で飛び乗るような気楽さがあっていい。マストをおっ立てていられるのは、索具(リギン)でその頂点をヨットの船首、船尾、左右の側に縛り付けているからである。帆は基本が2枚あり、いずれも縦に細長い三角形で、進行方向に向かってマストの後ろに張るのがメインセール(主帆)、前がジブセール(補帆)である。
「スピネーカーを繰り出せ!」
 基本の2枚の帆に加えて、船首に臨時に追加して張る大風呂敷のような帆のことだ。風をうまく受けると、オタマジャクシを掬おうとするときの手ぬぐいや、栄養の良すぎる爺様の顎下のように膨らむ。カエルを想像されても困りますなあ。作業にやや手間がかかる。艇長は恐い目をして睨む。この艇長、ヨットを習ったのが課題提出のためにいちいち封筒に切手を貼って出した通信教育だった割には横柄な態度を取る。人格ニ少ナカラス改善スヘキ点アリ。あ、うまく行った。艇はやたらと速く滑り出す。後ろから風に帆を押されているのではなく、舳先が何者かによって前方に強引かつ無頓着に引っ張られている感じがする。この程度のスピードが恐いのなら、海に出てはならない。浜に突っ立って日時計になっていてくれ。熱射病で倒れそうになったときには、体にうんと力を入れて棒になって、その石頭でスイカ割りを心がけてくれ。くるみ割りは避けるべきである。相手が悪い。夕暮れ後もそうやって立ち続けていると、月星時計に変わるだろう。
 2日間、ボクらは脳と筋肉と腱を使い、夢中で競技に取り組んだ。遠く、近く、対戦艇群が動き続けていた。途中で3チームが試合を放棄した。2チームがドクターストップ、残りの1チームは使用艇の故障が原因であった。ボクは、激しく揺れる艇の上で全身水浸しになりながら、今年のテーマ曲のサビの部分を繰り返し頭の中で再現していた。その後、曲は次々と入れ替わっていった。目標と運命を共有する仲間たちの頭の中にどんな曲が流れているのかは知るよしもなかった。体の方は脳に別の信号を送り始めていた。
「体力の限界」
「体力の限界」
「体力の玄界灘」
(もうダメだ)。
「もう、辛抱たまらんで」

第72章 セールに風を張って https://note.com/kayatan555/n/ndffc34a12a65 に続く。(全175章まであります)。

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