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苦手なモノにこそ学びがある

「不思議の国のアリス」という作品が子どもの頃から苦手。チシャ猫も白うさぎも双子の変なのも芋虫もドアノブもアリスも何もかも。あそこでまともなのはアリスのお姉さんしかいない。

学校の英語の授業ではクラスのお調子者男子が話がおかしすぎて散々作者の事をヤク中でしょ!?と言ってたのはやたらと覚えてる。同意していたのだろう。あ、ディズニー映画ではハンプティダンプティ出ていないな。

何がキモチワルイって話が通じ合わないのがとにかく気持ち悪くてストレスなのだ。登場キャラクター全てがキチ〇イの集まりで子どもの頃から克服するまで大変なストレスと恐怖の映画だったのだ。
みんなおしゃべりキャラクターのくせして一方的にただただ話すだけ。その口と言語は何のためにある??ピーターパンはよくみてたけどアリスは苦手だった。

マゾ体質なのかタフでありたいのか子どもの頃のトラウマ克服とかでディズニーランドの年パスを持っていた時はがんばってなぜか大人気作品「不思議の国のアリス」のグッズとかを眺めるところからスタートしたものだ。

猫は好きだがチシャ猫だけは受け付けなかったくらいである。
うちの飼い猫は賢くて察する事もできて大変愛らしい。

なんでわざわざ嫌いな作品の事を題材にしているかというと。
自分の理解しづらい世界も確かに同時に存在しているという事をやたらとここ数年の間に数世界で体感したからだ。世界というと一括りになるがここで伝えたいのは複数同時進行している世界線。
その時には確かに「世にも奇妙な物語」や「アリスインワンダーランド」だと思ったのである。

流石に耐性や俯瞰力も少しはついたなかで思うのは。その真逆の理解しづらい世界がいくつもあるのならその中のどれかは真逆ながらに自分が新たに進化適合できる世界なのではないかということである。地球以外に住める星ありませんかー?みたいな感覚。

不思議の国のアリスという作品自体はキ〇ガイ映画として長らくいたがそのあと耳の大きいゾウさんや黄色いクマさんがとんでもない内容だったのでもうその時代の芸術として捉えている。

話が通じ合わないことにやたらとストレスを感じてきたのはそういう生まれ持った気質が自分はつよい傾向があったからなのも納得したのである。確かに子どもの頃こそ特に特に拒絶反応示していた。

とまあ昔苦手なものでも克服する事ができるのであれば。そこで住む事も考えようによっては可能であるわけで。
例えば今の生き方や状況に行き詰っているのだとしたら、今まで自分が否定や無かったことにしていた世界の存在や感性にこそ突破口があるのではないかと思ったのである。
なんかタイミングよく色々出てきたし。話さない会話とかはね、こちらはストレスたまるけどね。
というかここまで考える辺りでもう旧世界よりも真世界の方に自分は馴染み始めてるんじゃないかと思う。

鏡とかあべこべとかも思いついたなかでアリスにした。
発想を切り替える考え自体は知っていて身についていたつもりだけれど。実際に想像以上の不可解な、全身と脳みそまるごと未知の世界に入って迷ってみると本質的にどうすればいいかけっこうあがく。

あとはなんだろ。
白うさぎが時計を持っているとか、ドアノブがしゃべるとか。
今いる現実世界ではありえないように。
今見ている人物が他の世界ではまた別の一面で過ごしていて実はそっちの方がよほど当人の本質に近いんじゃないかと思えてきたりとかね。

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