嗄れた月

当初、長編小説を書くつもりでいました。諸事情で短編小説に変えます。

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昨晩から降り続いていた雨は、仕事を終え、同僚と飲みに出て、少し高圧的な同僚の、強制的に共感させたいような愚痴に嫌気がさして、40代の老けてきた顔と、アルコールの赤さで嫌悪感を誤魔化した夜道にさらに強く降り始めた。これなら涙も誤魔化せるかなと思った。声を出して泣きたいくらい苦痛を育てていた。気持ちのせいで視界が霞んで見える。こんな時は誰かに頼ってしまいたい。

僕の思考は途切れ途切れになっていて、人生において一貫性が無かった。まるで精神病者のようで、歯車がバラバラに廻っていた。

気が付くと一人暮らしの社宅に倒れていた。あの同僚が送ってくれる訳はないし、また記憶を失ったのだ。たまにある喪失は、不思議な事に、まるで周囲で何も無かったかのように過ぎていく。初めから、欠けた時間は気にならなかったし、粗相があれど見逃してくれているのならどうでも良いかとも思っていた。でもそれでも主観的な時間が欠けてしまうのは苦しい事だった。

僕には至福の時間があった。インターネットで歌の配信をする時間である。歌ってしまえば苦しみは消えていった。

僕は小さい頃から歌う事でストレスから逃れていた。それを母は、批判していた。もっと向き合って対処をすべきだと言っていた。その事は正しい事だと思う。僕はそれを無視してるが故に、こうして、残念なサラリーマンをやっている。しかし、多大なるストレスを歌で昇華している訳で、それも良いのではないかと思う。決して健康な精神では無いけれど、そうして生きているような面も人間には幾らかあるかもしれない。

倒れていた事に気づいたのは朝の4時で、次の日の仕事は休みだった。僕はだらしなく、その場でそのまま倒れていた。

その夜の月は満月だった。夢の中で何かの動物の遠吠えのような声を同僚が会社で発していて、しかしそんな事を何も気にせず、僕は更に夢の中へ深く沈んで行った。 

その裏で誰からも姿を見てもらえなかった満月は、地球に背を向けて泣いていたのだと思う。僕が目を開けても雨は降り続いていたらしく、テレビを付けると、豪雨のニュースが流れていた。真っ暗なのは、太陽が怒っているからかな。

雲が真実を隠すと、世界はまるで違って見える。ありふれて当たり前な雲の悪さも、僕にとっては、月や太陽の怒りに思えた。まるで、運の悪さを神のせいにするみたいに。

幼稚な世界で生きている僕も、結局はそのような普通の人間と同じ頭で生きていた。

僕は故に、神に救ってもらおうと、勝手な信心を抱いていた。雨の日は、家で僕の母に線香をあげる。それは、僕が母を大切に思っている気持ちを、ただ一つだけ残っている僕の純潔を、天上で理解されたら良いなと感じていたからだった。

それを作業のように済ませ、僕はインターネットを開いていた。

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僕は普通の人間なのだと思う。と言うより、普通の人間だと信じていたい。苦境もあれば、高揚もあり、ある出来事によって引き出された感情が、僕が行動する基準だった。

ただ、苦境の方が多かったのだと思う。どうしても吐露しきれない苦しみを僕は音楽に変えた。大人になるにつれ、諦める力がついても、耐えうる力は減っていったように感じる。いつまでも僕の捌け口を沢山探していた。色んな曲を聴いて、自分を象れるような曲を歌うだけだった。

僕と似たような人は沢山いる。僕はむしろ同業者より他人の為になろうとする意識が薄い。全て自分の為に行っているのかもしれない。

感情が僕を操ってるとは、感じていた。しかしそれはとても大きすぎて、自分で操れるものではなかった。その上、感情をあまりに大切にしすぎると、自分が特別な人間としてデフォルメされていく様を幼い頃に知っていた。普通を目指すその精神が、普通である所以だと思う。

視点が普通でなかったら人はどうなってしまうのだろう。全てのものに根拠を失ってしまうのではないか?

苦しみが少し多かった普通を目指す僕の目には、ある日の月はとても霞んで見えたのであった。それは、僕の目が嘘を写しただけなのに、まるで声が嗄れたおじいちゃんみたいに、月が歳をとったような感じがした。自然というのは屈強にもそんなに変化しない。人工物は変化する。ひたすら衰えていくだけの僕は、自然と対比してとても惨めだ。月を神様のように、神を信仰するように、その日、月に向かって涙をあげた。普通の道で、唐突に涙を流した僕を周りはどう思ったのだろうか。ふと顔を上げると、それでも嗄れている月は、僕に安堵を与えた。僕はその刹那、月の全てに興味を失って、正気を装い、街中を後にしたのであった。

結局、僕は特別を求めない代わりに、特別にまで普通を求めていたのかもしれない。

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世界には特別な人間がいる。例えば社長だって、僕達よりも良い待遇を受けている。そういう人達が許される行為って一体どこまでなのだろうか。僕は、上役を尊敬して扱う事すら出来ないような社会からは落ちぶれた人間だった。上下関係はきっちりしない方が良い。上でも下でもない普通の人間同士だから。自然体に振る舞えば良い。

正直すぎる僕は、社長に感じない尊敬を、ある歌手に感じたりしていた。

尊敬すればするほど僕はその人を追いかけた。一言一句を大切にしていた。故に、一言一句に一喜一憂した。怒りにもなれば、悲しみにもなり悔しさにもなり喜びにもなり楽しみにもなる。僕は、同僚と飲んで、疲れて床で寝て起きたその日、その歌手の事をインターネットで調べていたのであった。僕はいつものように、その一喜一憂を書き込んだ。全て正直な気持ちで、普段は多くの場合賛同者が居た。しかしその日だけ違った。

「通報します。」
「どうしてそんな言葉が出てくるの?」
「アンチコメかな?幼稚園からやり直しな。」

等とコメントが付いた。思わず嗄れた声が出た。苦しくなって、僕はインターネットを閉じた。それ以降、もう見ないようにした。

僕は、僕の価値観をただ吐露していただけだった。まるで誰かに僕になって欲しいと伝えるように。

「あなたになれるのはあなただけよ。」

ある本の一節で、周りが気になる女の子へ先生がそんな声をかけてあげる。その女の子はだんだんと周りを気にしなくなっていった。自分らしさを輝かせて、人格に迷いが無くなっていった。でもその女の子は最後に自殺してしまう。自分らしく振舞ったその子は、その核の部分を否定されてしまったのである。

嗄れた声の年老いた先生は、お墓の前で最後にこう語る。

「あなたの死は美しい。あなたは凝縮されていて、どこにも罪はない。今まで感動を沢山与えてくれてありがとう。」

僕はその本を最初に読んだ時、自分らしくある事は他者へ密度の濃い時間を提供する事が出来るのだと読んだ。

しかしそれは僕の人生において活用する場面が無かった。

最近は、好き勝手生きて、最後に自殺してしまうエゴの塊の人生は客観的に見たら滑稽だと主張しているように読んだ。精神的弱者への皮肉である。

価値観を吐露する事は、僕にとって、滑稽なそれに該当した。醜い僕自身はさらに醜く見えていった。自分で選んだ自分に耐えられなくなってしまった。

翌日から翌々日の夜、天気は回復していて空には不完全な満月があった。僕は周りが田んぼのあぜ道に車を停め、練炭で自殺をした。

遠のく意識の中、嗄れた月が僕に救済の言葉をかけてくれる気がした。

最後に嗄れた声を何とか出し死に絶え、嗄れた警察官が僕の遺体を操作する。

僕の周りは僕の沈黙に苦痛を感じ、それぞれに嗄れた月を見ていたかもしれない。

僕の魂は死んだ後も、生前と同じように、大きな虚構を真実だとみなし、現世を彷徨っていた。

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僕は、そのあぜ道にどのように移動したのかよく知らない。しかし、いくら主観的な時間が欠けていても、些細な事が引き金になってしまったのは、紛れもない事実だった。

僕は魂として現世を彷徨いながら、僕を救う言葉を探し人々に届けようとしていた。言いかけたその一言を飲み込んでくれてありがとう。と、同僚のそばで思いながら、現世を振り返って泣いていたのだった。

その時の月は嗄れていなかった。

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以上です。最後まで読んで頂きありがとうございます。

皆様、良き生を!

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