見出し画像

LinKAge~凛国後日譚 其の三

 まだ東から太陽が登る前、ほんの少しの時間を彼は愛していた。寝床から早々と起き出して、まだ静かな里で艮は大きく深呼吸する。

 西の空は太陽が登ってくるのを拒むように、夜に別れを告げるのを惜しむように蒼く染まる、そのほんの僅かの儚い時間は艮にとってかけがえのないものだった。里の朝は街より早い。戦に出ることになれば三日三晩寝ずに戦場を駆け、藪の中に身を潜めることも当たり前だ。だからこそ何もないこの僅かな平々凡々とした日、艮は他の誰よりも少しだけ早く目覚め、空も山も全てが蒼くなるこの時間、自分がその蒼の一部になっているのが心地よいのだ。

「あれ、おはよう艮、今日も早いんだね」
「よう雪、お前も早いな」
「なんだか起きちゃったんだよ」

 そう言いながら雪は目をこすっている。年の近い彼女は変わった女だ。流浪の戦闘集団と言われた外方者とは言え、女性の身で自ら好んで戦場に戦士となりに行く者は少ない。勿論そういうものも居たらしいが、今里で戦場に出ているのは薊とこの雪だけだ。

 薊は別格だ。生まれたときから剣を握っていた、なんて冗談がまかり通るくらいの強さと速さを持っている天性の剣士だ。しかしこの雪は違う、まだあどけなさの残る表情は可憐な少女のようでもあり、薄汚れた顔は少年のようでもある。

「お前顔すすだらけだぞ、なんだそれ」
「あっ、昨夜飯作ったときかな、くそ」
「雪よぉ、もー少し女っぽくというかさ、なんとかできねえのかよ、ちっと紅をひいてみるとかさ、あるだろうがよぉ」
「はぁ?なーにくだらないこと言ってんだよ艮!そんなの必要ないよ、そんなことよりもっとあたしは強くならなきゃならないんだ、小綺麗にするのなんてその辺の町娘にまかせときゃいいの」
「はぁ・・・素材は悪くなさそうなのにねえ・・・せめて顔くらいは洗っとけよ」
「うっさいなぁ、はいはーい」

 ブツブツ言いながら雪は川に向かっていく。艮には今ひとつわからないのだ、雪は強くなりたい、戦士でありたいと事あるごとに言う。勿論戦士として立派になりたいと思う、だが心のどこかで自分には戦いは向いていないんじゃないかと思う時があるのだ。それより交渉事やモノを買ったり売ったりするようなことが向いている気がしている。更にそういうことが好きだと思っている。

「おうウシ、今日も早えな」
「兄貴!おはようございます!」

 気がつくと薄っすらと東の空は明るくなり、里の家々からは炊事の煙が上がり始めている。背後からのそりと現れた大男は艮の頭をがっしりと掴んできた。艮とて大柄のほうだが、それよりこの男は頭2つ分くらいは大きい。これこそ外方の里の守護神とも言われる巽だ。

 この男がいるから艮は戦場に踏みとどまることができている。それくらい巽の存在は艮の中で大きい。どんな戦場でも巽がいれば一人で20人をなぎ倒すと言われるくらいの膂力の持ち主であるだけではなく、雪や艮たち若手の稽古も彼が見ている。相談相手にもなってくれる巽は名実ともに外方者の守りの要なのだ。

 その男としての器の大きさに憧れているのだ。こういう人になりたいと心底思う、使う獲物も見様見真似で巽と同じ棒にした。向いてないと言われながらも形からでも近づきたいと願っているのだ。

「朝稽古したのか?」
「あ・・・すんません、まだです」
「ちったあ真面目にやらねえとよぉ、いつまでたっても半端なままだぞ」
「わかってはいるんですけどね・・・」
「鷲のやつはある程度形になったがな、お前と雪はまだまだだ、いい加減俺から独り立ちしろ」

 外方にも戦場の掟というものがある。一人前になるまでは熟練の者と組んで戦場での戦い方や生き延び方を習うのだ。ある部分徒弟のようなものだが、雪は里の長である鉄の預かりとなっている。艮は頭を地面にこすりつけて巽と組んでいる。

「そうですね、ほんと、すんません兄貴」
「だから兄貴じゃねえよ、お前みたいなできの悪い弟持った覚えはねえ」

 そう言いながら巽は艮の頭をガシガシと撫でる。言葉でどう言おうとこの男は心底優しい、それを知っているから誰もが彼を慕う。艮もそうだ、強くなりたいとは思うが、この男の近くから離れたくないのだ。


「はあ、稽古すんぞ、ほれ、構えろ」
「あ、はい」

 言われて慌てて傍らに立てかけていた杖を取る。側では鋼鉄を打ち出した6尺の棒をブンブンと振り回す巽がいる。

「あの、兄貴、木剣ではないんで?」
「いつまでもヌルヌル稽古に身が入らねえからよぉ、たまにはな、本気で打って来い」

 ズン、と空気が重くなり、ニヤリと巽が笑う。腰を深く落とし半身の姿勢で水平に鉄棒を構える巽独特の構えだ。慌てて艮も構えるが、この時点ですでに気圧されている。艮の頭蓋の中で無数の攻め手が浮かんでは消える。正面から行けば突きが来る、右手に行けば逆手で、左手に行けば順手で横薙ぎに鉄塊が来る、どの筋でも艮の顎から上は消し飛ぶだろう。

 並の者ならこの想像もつかないままに死ぬ。そこは艮も戦闘民族の人間なのだろう。稽古とわかっていても中途半端には攻めることなどできない。だからといって受け手に回っても巽の一撃を止めることも受けることもできない。そうさせないための鉄棒なのだ。

二人微塵とも動かない時間が過ぎる。時にしてほんの数秒だが、艮が膝をつく。全身汗だくになり息も絶え絶えでやっと声が出る。

「ま、まいりました、ありがとうございました兄貴」
「ふん、まだ打ち込めねえか、精進しろい」

 普段の稽古はこうはならない。木剣を使って実際に打ち合う事が多いが、極稀に艮を試すように巽はこの稽古を持ちかける。すでに何度か試しているが一度も打ち込めたことはない。

 だが、艮には少しだけ誇らしいこともある。雪はまだこの稽古を巽から持ちかけられたことはないのだ。ほんの少しだけでも妹のような雪より先に行っているのが嬉しい、だが年下の鷲はもう巽や刃と本気の打ち込み稽古ができているという事実もまた、ある。

「艮」

 不意に声がかかる、振り向くと手元に曲刀が投げ渡された。紅の鞘に収まったこの剣はこの世に一つしかないものだ。持ち主である薊が微笑みながら艮を見る。

「そいつを構えてみな」
「姉さん、帰ってたんですか?」
「いいから、ほれ」

 薊は国王葵の護衛を承り、普段はこの里に居ない、月に一度くらいふらりと帰ってきてはすぐに城に戻ってしまうが、今日帰ってくるというのは里のだれも知らないことだった。薊の言葉を受け艮は恐る恐る剣を抜く。

 この刀と言われる曲刀は凛の国にも数本しかない。鍛え方が非常に難しく、恐ろしい切れ味と硬度を誇るが扱いと手入れの難しさから今では数人しか使い手はいないと言われている。だがその優美な形から儀式用として城内の高官が腰にぶら下げている。

 ぬらり、と艶めかしい刀身が姿を表す。夜間飛行と名付けられた薊の愛刀は、かつてこの国に落ちた隕鉄を多く用いて作られたという噂がある。硬さの中に粘るような柔らかさを併せ持ち、細身だが決して折れぬと言われている逸品だ。それを艮が構える。見様見真似ではあるがどこかその姿は決まっている。

「うん、やっぱりだ、艮あんた杖より剣のほうが合ってるね」
「へ?」
「人にはね、体格や生まれついたもので扱いやすい獲物ってものがあるのさ、お前には巽と同じ技を使うには力が足りない」
「そ、そうですか」
「巽の技はね、大地をぶち割るくらい踏み込んで、全身を岩のように瞬間固くすることでめちゃくちゃ重い一撃を作る技さ、それをつないで戦うにはとんでもない力がいるの、あんたには厳しい」

 艮はそのことは薄々感づいていた。一手技を出すと次に繰り出すまでにもたついてしまう、巽はかんたんに地面の重さをそのままぶつけろというが、その前に艮の体が悲鳴を上げるのだ。

「刀ってやつはね、逆に力を入れたらいけないのさ、どこまでもしなやかに腰をいれるだけで斬る。当てるだけでは大根だって斬れないからね、当てて、引いて斬るのさ、あんたは存外に手首が柔らかい、それは素質だよ」

「おい待てよ薊、こいつは今俺が預かってんだ、横から余計な口はさむなよ」
「あら巽、どしたの?自分が艮を上手く育てられないからってヤキモチ?」

 空気が重くなる、艮は瞬時に気づく。ああ、兄貴が怒った。

「薊ぃ、たまにふらっと帰ってきたからって言いたいこと言うだけってのはよくねえなぁ」
「あらそう?どれ、艮、見てなさいな」

 ふわりと艮の横に立った薊が夜間飛行をその手から奪い取る。

「あたしと巽で手合わせしてあげるから、どっちの技が使えるかよく見て、盗むんだよ?」

 言うが刹那、薊は矢のように巽に向かって飛び出していた。腰に構えた夜間飛行で突きを見舞う。瞬間里に響き渡る鉄と鉄が激しくぶつかる音、巽がこれを受け止めている。

「上等だ、やってやろうじゃねえか薊ぃ!」

 受け流すと同時に鉄棒が小枝のように舞う、触れたものを肉片に変える小さな竜巻のような数撃、薊は二発見切って首だけでこれを交わすと半歩下がる。旋風のような隙間を縫って薊が再度懐に入り斬りつける、鉄棒で受ける巽、瞬きする間に恐らく四発夜間飛行が打ち込まれる。恐らく四発、それ以上でももう艮の目では捉えられない。

巽が細かく切りつけられる、裏拳を放ち薊を遠ざけると即時棒を持ち替え突きを放つ、隙間なく三発。既で避けつつ再度懐へ。

「おうおう、珍しいものやってんな」

 振り返ると艮の背後に大柄の男が酒瓶片手にこれを眺めている。みっしりと密度の巨木のような腕には無数の入れ墨が刻まれている。外方の里の長である鉄だ。

「鉄!な、なんか急に二人始めちゃって」
「おう、暇だったんだろ、じゃれ合っちまって可愛いところもあるね、ふたりとも」
「じゃれあうって」

 どう見てもお互い殺す気だ。牽制に見える一撃ですら触れるだけで即死のそれでしかない。

「生まれてからずっとの付き合いだからな、これくらいやらなきゃ稽古にもならねえだろ、ほれ、よく見とけ」

 ふと振り返ると巽が押されていた。振りほどき遠ざけても薊は速度を落とすことなく懐へ懐へ入ってくる。自慢の鉄棒を振るう空きがなくなってきている。

「はは、薊また腕上げやがったか」
「兄貴が」

 こんなにも薊は強いのか、実際戦場で薊と一緒に動いたことのない艮からしたら驚愕するしかなかった。この世で一番強いのは巽だと思っていた。その巽が今防戦に必死だ。

「薊はとにかく巽の手を封じに行ってる、詰将棋みてえなもんよ、あのデカブツどこに行っても負けなしだったからな、工夫と自分の稽古を怠ってやがったか?」
「あぶねえ兄貴!」

 瞬間大勢を崩した巽の額めがけて薊の一刀が振り下ろされる、が、それを右手でガッチリと掴んだ。風のように舞っていた薊の動きが初めて止まる。

「あんた・・・とんでもない」
「横からうるせえなぁウシ・・・俺はお前の兄貴じゃねえっての!」

夜間飛行を掴んだまま薊を投げ飛ばす巽。何故斬れない?脳裏に浮かんだ疑問を察知するように鉄が語る。

「刀ってのはな、当てて素早く引くことで斬るんだよ、巽はあのバカ力で刀身を握り込んで引かせなかった、あんなこと誰もできねえよ」

 空中でくるりと回転して構え直す薊。殺気が更に濃くなる。

「ありゃ、あいつらちょっと本気になったな、こりゃあほっとくとどっちか死ぬか」
「鉄!そんな悠長な!」
「艮、よく覚えておけ、薊ってのはありゃバケモンだ、刃の速さと牙の正確さをどっちも持ってやがる、巽があれに確実に勝てるのは力くらいのもんだ、だが・・・」

 鉄がのそりと立ち上がる。酒瓶を捨て置き、地面に転がしていた分厚いだんびらを手にする。通常の剣の倍の長さと三倍の厚みのある鉄の愛刀、切れ味はほぼ無い、だが重さと速さで全てを両断する死神の鎌だ。それを引きずるように持つ。

薊と巽が加速しぶつかり合う、その間にそれよりも早く飛び込んだ鉄がいた。薊の刀と巽の鉄棒がかち合うその点を跳ね上げるようにだんびらを下段から振り上げる。艮の目には真にその剣筋が見えなかった。結果から振り上げたのだろうと思っただけだ。

「その二人より強いのがこの、鉄さまよ」

 薊と巽が顔を見合わせる。

「さあ、朝飯前の運動にはちょうどよかっただろうが、今のだとちーっとばかし巽の負けだな」
「んなことねえよ!これからがいいとこだったんだぜ?」
「ふふ、ムキになって巽は」
「ったく・・・まあでもお前の手の内はわかったからな、次は俺の圧勝だな!」
「ところでさあ、艮!結局どっちが自分に向いてそうだい?」

 急に声をかけられて艮は戸惑う、どっちがと言われてもどっちも化け物だ。真似できるものではない。改めて艮の脳裏に外方の戦士の恐ろしさが浮かぶ。

「あれぇ~!薊じゃないか!お帰り!いつの間に?」
「ああ!雪!ただいまぁ!」
「おう雪、腹減ったな、朝飯用意しろ」
「あ~はいはい、やりますよやりますよ・・・」
「んじゃあ、朝飯食いながら艮には俺と薊のどっちがよかったか、聞かせてもらうか」
「え、ええ!?勘弁してくれよ兄貴・・・」

 ついさっきまで必殺の気迫を出してとは思えないくらい穏やかに五人は歩みだす。常在戦場、世代を超えて流浪を続けた戦闘民族外方者が遂に手に入れた自分たちの里での、日常の朝であった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?