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【 RIVIVAL OF EVANGELION 新世紀エヴァンゲリオン劇場版 DEATH (TRUE)2/Air/まごころを、君に 】 感想vol.017 @あべのアポロシネマ⑤ 21/1/8

98/日/ビスタ/総監督:庵野秀明/脚本:{DEATH(TRUE)2)}薩川昭夫、{Air・まごころを、君に}庵野秀明/作画:{DEATH(TRUE)2)}摩砂雪、貞本義行、庵野秀明 {Air}(キャラクター)黄瀬和哉、(メカニック)本田雄 {まごころを、君に}鈴木俊二、平松禎史、庵野秀明

だからみんな、死んでしまえばいいのに…

とは、公開当時のキャッチコピーであった。
(同時期に公開されていた『もののけ姫』の「生きろ。」とは、真反対の、余りにも暴力的な性質の言葉!もちろん『もののけ姫』も、当時、劇場で観ましたけども。)
これ程迄に、生死観について考えさせられたアニメは、かつてなかったのではないだろうか?今でもそう思ってしまうし、そうだと思っている。
何故そう思うのか?それは、同時期に「死んだらどうなる?」という、誰しも考えるであろう取り留めのない事を、夜毎考えては、懊悩と煩悶を繰り返して、眠れなくなる様な日々が続いていたのもあるが、初めて「哲学」というものを教えてもらったのが、このアニメであったからだ。
何も知らない、田舎の少年であった私に、計らずも「内省」という行為をもたらしてしまったのだ。それ故に、国語の時間に書いた作文が先生の目に止まり、クラスの皆の前で読み上げられるという、辱しめを受ける事になってしまったのだ!(どんな内容であったかは、今となっては忘却の彼方。面映ゆさに韜晦してしまったか?)居たたまれず、外に出て、校内を彷徨いてから、恐る恐る扉を開けて教室に戻ったあの日の事を、思い返しては、また赤面する様な恥ずかしさが込み上げて来る!
ん?これはちょっと描写過多。
そんなに照れる事もないか。

正直、この作品については書かなくても良い様な気がしていた。
「今更何を書けば良いのだろうか?」と、思い悩むばかりで、一向に筆が進まないでいた。
いや、「どこから書いた方が良いのだろうか?」と、出発点を定められないでいた様に思う。
いやいや、単に逃げていたのだ。書いてしまう事で、自分の中の「何か」が消化されてしまう事から。
でも、もう書きます。
逃げちゃダメだ、逃げちゃダメだ、逃げちゃダメだ…。そう、逃げちゃダメだ!

本来であれば、劇場版についてのみ書けば良い訳だが、長くなるのを承知の上で、発端から書き始める。
テレビで『新世紀エヴァンゲリオン』が放送されていたのが、1995年。
当時の私は小学5年生であった。
オンタイムで観ていたのは、学校内でも、私を含めた数名しかいなかった。
観ていた者の共通点は、中学生以上の兄や姉がいる者。(私には2歳上の兄がいる。)つまり、助言者がいなくては、到底小学生のバカな頭では理解出来ない代物であった。
これだけは真実言えよう。兄貴、感謝してるぜ!
感謝ついでに書くとすると、これは通称『春エヴァ』の公開前に、深夜でテレビシリーズの再放送がなされていた時の話。
小学生の私は夜更かしが苦手で、放送開始まで眠っていた。そんな私を兄貴が起こしに来てくれた訳だが、寝起きのは私は兄貴に向かって開口一番、「宴もたけなわだね。」と、つぶやいたのだ。
ああ、知らず知らずの内に、カヲル君的要素が私の中に浸透していたのである。
このエピソードについては、未だに言われる事がある。
兄貴、恥ずかしいぜ!
そんなこんなで放送当時、自発的に観ていた者は、なかなかに強者であったのを覚えている。
今となっては、国民的どメジャーな作品となってしまったが、当時としては、非常に間口の狭い作品であったのだ。

文字通り、貪る様に観ていた。
テレビ放映を観た後に、レンタルビデオを借りて来て、ビデオフォーマット版を観る。
「おお!こんな画が足されてる!」「ああ!こんなシーンが増えている!」と、目を爛々と輝かせながら、分厚いブラウン管の画面を食い入る様に見詰めていたのだ。(全くもって余談だが、液晶テレビよりもブラウン管テレビの方が音が断然に良い!と感じるのは私だけか?液晶テレビは、どうにもスカスカでやりきれない。やはりブラウン管は、あの厚みがあったからこそ、音を増幅させてくれていたのだと、改めて実感する。昭和の技術、侮るべからず!)
 
一体、『新世紀エヴァンゲリオン』の何が、私を魅了して止まなかったのか?
それはきっと、主人公が魅力的でなかったからである。元来、主人公というのは、何かしらの特殊能力を持っていたり、憧れを抱く様なカリスマ性だとか、誰もが羨む様な容貌をしていたりするものだが、碇シンジ君に関しては、そういったものが全くないのである。
ただ、エヴァに乗れるというのは、限定性の高いものではあるけれども。
しかし、それを彼は望まない。そこにアイデンティティーを見出そうとしないのである。馬鹿な子供であれば喜び勇んでやる気を出そうというものだが、何とも不思議である。
私も人見知りの激しい内向的な子供であった。そこにシンパシーを感じていたのだと思う。「あ、これ俺じゃん。駄々こねて拗ねてばかりいる俺じゃん」と。
ただ、決定的にシンジ君と私が違うのは、彼は誰からも愛されるという点だ。突き放されるが、見放す者は誰もいない。常に気にかけてくれる存在が居続ける。
私はよく人に嫌われる。理由は何となく分かる。単純に、他人に対してあまり興味や関心を示さないからだろう。さして頓着しないからだ。そのくせ寂しがる。ややこしい。「まあ、いいさ」と嘯いてはみても、随分と損の大きい人生を送ってきたものだ。
テレビ版最終話の様に、みんなから「おめでとう」と言われる、そんなシンジ君みたいになれると思っていたのにな。

書かなくても良い事ついでに、ここからは、「思い出」と「思い入れ」と「思い込み」について記す。エヴァと関係ない部分もあるがそこは目を瞑って頂きたい。

先ずは 、「思い出」の話。
私は群馬県の前橋市出身。当時、私の住んでいた街には、3つの映画館があった。
1つ目は、駅前通りに面した、東宝、松竹、外国映画などを上映していた、映画館とはかくありなんと思わせる様相の、座席数が最も多い「文映」。床に敷かれた赤いリノリウムの鈍い輝き、ガラスケースの中のパンフレットやポップコーンなどが、幼心に印象深く刻まれている。ここでは、ジブリやドラえもん、クレヨンしんちゃんなどを観ていた。
2つ目は、アーケード街の中にあり、東映、角川系を上映していた「オリオン座」。木戸口で入場券を購入すると、螺旋階段を上がって劇場へと入る。当時は入れ替え制や入場制限もなかったので、通路や立ち見は当たり前。夏ともなれば、子供でぎゅうぎゅうになっていた。ドラゴンボールやスレイヤーズ、機動戦艦ナデシコなんかを観に行ったもんです。
3つ目は単館ものを上映する、西友の中にあった「テアトル」。ここは馴染みが薄かったが、高校生時代に、石井克人監督の『PARTY7』が上映された際は狂気して観に行った記憶がある。
しかし、これらの映画館は全てなくなってしまった。テアトルがあった劇場は、運営形態を変えて、今も同じ場所にはあるが、当時のそれとは違う。
さらば、想いでたちよ。

続いて、「思い入れ」の話。
カセット・ウォークマンを使う様になった。シンジ君のそれは、DATではあるが。しかし、そんな知識は当時の私にはない。見た目が同じならそれでよしである。
シンジ君が劇中で何を聞いていたかは分からなかったので、自分の好きな安室ちゃんや華原朋美、hitomiなんかを聞いていたと思う。TK全盛期。改めて良い時代であった。
そして、今でもあるのか知らねども、オリジナルの下敷きが作れる制作キットというものが、当時は文房具屋で販売されていた。
さして収集癖というものはないのだが、好きなものを身近に置いておきたいという欲求はある様で、小学校時代、アニメージュやニュータイプ、コンプティークを購入しては、イラストを切り抜き、それを下敷きに仕立て上げては、ホクホク顔で学校に持って行っていた。
ミサトさんの軍帽を被っているのが一番のお気に入りであった。だが、本当はアスカが好きであった。
ドイツ語を独学で学ぼうと本屋で入門書なんかも買っていたりした。しかし、字面だけでは発音が理解できなかったので断念。同じ様に『らんま1/2』のシャンプーが好きだったので、中国語(北京語)も挑戦したが、こちらも同じ理由で断念。全く学ばないねぇ。
今時はインターネットが普及しているので、独学でもリスニング環境は整っている様に思うので、時代が違えば私もドイツ語が話せていたかも知れない、という希望的観測。
では、何故ミサトさんかというと、年上の女性が好きだというポーズを気取る事で、何となく大人になれていた様な気がしていたからかもしれない。実に幼稚だねぇ。
思い出したが、『GS美神 極楽大作戦!』の美神令子も好きであった。勝気な性格で、長髪にタイトなワンピース姿という共通点。はあ、なるほど。
しかし現実では、そういった女性に近寄りたいとはなかなか思わない。怒られるのが怖いのでしょうな。へっ、本当は怒られたい癖に。

最後に、「思い込み」の話。
これはもう、単純な話。理解しているのは自分だけだという、何の根拠もない肥大した自尊心が生み出した怪物。これは「物語を」という意味ではなく、「面白さを」という事だが。
物語の解釈は人それぞれ。色々と自分なりの考察などもあるが、正しいとか正しくないとかは、私にとってはどうでも良い。劇中に流れる登場人物の喜怒哀楽。それを感受できる事が至上の喜びであり、それだけあれば、他は何もいらないのです。
初めの方でも書いたが、自分自身を見つめる事の大切さを学んだ気がする。しかし、見つめ過ぎて内向の度合いが強くなるのも戴けない。
結果として、登場人物の大多数と同じ様に、私は自分の事が嫌いな人間になってしまった。この癖は未だに治らない。好きになる要素が自分としては何処にもない。だから他人に好いて欲しいと思わないのかもしれない。
セルフ補完計画が発動し続けてしまっている。しかしこれでは作者の想いを受け取れてはいない。
エヴァは自己肯定の物語であるはずなのに。ほとばしる熱いパトスで思い出を裏切らなければいけないのだ。そう、窓辺からやがて飛び立たねばならないのだ!

長々と書き連ねて来たが、漸くここから作品について触れたい。
ストーリーについては言わずもがな。改めて劇場で観賞した感想だけに留めておく。今回の上映はBlu-ray用に制作された5.1chサラウンドのDCP上映版であり、フィルム映写でもないし、音響も当時のそれとは違う。家庭に5.1ch環境があれば既に体験出来ていたのだろうが、これまでそんな裕福な暮らしを送って来たことがないので、遅まきながらの経験となった。

先ずは、『DEATH(TRUE)2)』。
やはり名作。テレビ版の弐拾四話迄の総集編であるが、テレビ版視聴者であっても、「いや、振り返りになってないじゃん」と突っ込みたくなるが、そんな事はどうでも良くなる程に編集がカッコいい。スタイルというか、イムズにただただ痺れる。
スクリーンにデカデカと現れるマティスフォントの摩砂雪の名前を観た時は鳥肌ものですわ。
実に意味深なアバン。第2新東京市第三中学校の体育館でシンジ君の様な存在が演奏するのは、「音楽の父」と称される、バッハの「無伴奏チェロ」。
なるほど、ここでも父を追いかけていたのかと、今頃になって得心する。
実に良い曲で、色々な映画やドラマなんかでも使われているし、ヨーヨー・マが演奏しているものを聞いたりもするのだが、どれもこれもしっくりと来ない。私にとっての「無伴奏」は、やはり鷺巣詩郎アレンジのこの「無伴奏」なのであったか。
そして、映画の終わり。縦文字横スクロールのエンドロールで流れるのが、パッヘルベルの「カノン」。
公開当時の影響力は絶大で、中学校の合唱コンクールでは、全クラスの8割が自由曲にこの曲を選曲していたものですわ。
言うまでもないが、エヴァというものは、劇中でのクラシック音楽の選曲や使用法が秀逸。良い音で聴くと尚更に感じられますわいな。

続いては、『Air/まごころを、君に』。
シンジ君が病床のアスカに対してとった行動。賛否両論あるでしょう。いや、基本的には否しかないか。女性からしたら怒髪天でしょうな。
でも、好きな人だったらちょっと嬉しかったりするのかな?なんてね。
正直、当時は良く分からなかった。そんな事するかね?そりゃいかんでしょ、と思っていた位で、あまり深く考えていなった。
だが、今となっては、分かるよシンジ君。男の心情としては、痛いほどに理解出来る。占有欲からくる愛憎。承認欲求と否定願望のジレンマ。他傷行為に対する自傷行為での穴埋め。
ああ、シンジ君はアスカの事が好きなんだなって泣けてくる。ただ実践するかどうかは何とも言えないが。
やはり、弐号機と量産型が対決するシーンの作画には、舌を巻く。エヴァンゲリオンは人造人間であるので、角ばった動きはないのだが、スクリーンサイズであれほど滑らかに動かれると、かっけぇなぁ、と純粋に思ってしまう。アスカを応援しちゃう。エーステって言っちゃう。
そして、白眉と言えるのが重量感の表現。複製されたロンギヌスの槍がめちゃめちゃ重いというのが伝わってくる。枚数何枚で書いているのかは分からないが、相当なこだわりを持って制作陣が臨んでいたのかというのが伺い知れる。
これは、5.1chならではだと思うのだが、自我崩壊したシンジ君が精神世界の中で綾波と行う対話シーンが実に印象的。スクリーン側からは綾波、客席側からはシンジ君という風に音の振り分けがなされていた。
そうかそうか。やはりシンジ君は観客の代弁者であったのか。あの叫びは我々の魂の叫びであったのか。
否定も肯定もされない事の恐ろしさを痛感し肝を潰した。答えは自らの力で導き出さなくてはならないのだ。改めて重要なシーンであるよ。

徒然なるままに書き連ねた文章も、そろそろ筆を置く事にする。
全然映画について触れていないし、何を書いているか自分でさっぱりわからないが、気持ちだけはすっきりした。
新年から充実した気持ちで劇場を後にする事が出来た。あれやこれやを思い出す良い機会にもなった。
ありがとう。さようなら。そして、おめでとう。
総じてやっぱり、「気持ち悪い」作品でありました。

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