岡崎おどり   浅川かよ子

 慶長八年徳川家康が、江戸に幕府を開いてから、それまで、みだれにみだれていた戦国の世もようやく治まり、平和な日々がつづくようになりました。

 そんなある年の秋の夕暮れ。
 安曇正科村源光寺に、旅の若い男と女が訪ねてきて、
「わたしらをお寺で、やとってください。」
 と、いきなりたのみました。
 年とった和尚さんと、おだいこく(和尚さんのおくさん)は、たまげて二人を見ました。
 男は、背中が弓なりに曲がり、前かがみになって、みにくい顔をしていました。
 それにひきかえ女は、背がすらりとしていて、まるで、天女のように美しいひとでした。
「わりいしゅうでもなさそうだ。」
「やとってやりましょうや。」
 心のやさしい和尚さんとおだいこくは、そうささやき合って、二人の身元も聞かずにやとってやりました。
 男は七助、女はふふといい、二人はめおと(夫婦)でした。
 やとわれた二人は、かげひなたなく働きましたので、和尚さんとおだいこくは、
「若いもんがいると、明るくなるなあ。」
「ありがたいねえ。」
 と、喜びました。

 その年も明け、春がめぐってきました。
 源光寺の裏山の桜が見ごろになった、ある夜更けのことでした。
 和尚さんは寝床の中で何かの物音に目をさましました。その音は、七助夫婦の部屋の方から聞こえてくるのでした。
「はて、今頃、なんの音ずら。」
 和尚さんは、寝床から起き出して、えんがわの雨戸を開け、音のした方を見ました。
「おやっ。」
ほのかにかすんだ月の光に照らされながら、ひょっとこの面を顔につけた七助と、おかめの面を顔につけたふふが、手を取り合って、裏山の方へ行くではありませんか。
――――お面なんかして、二人は何をするずら。
 和尚さんは、二人に気づかれないように、そっと、そのあとをつけて行きました。
 二人は裏山の桜の木の下に着くと、しばらく月をあおぎながら、何ごとかささやき合っていましたが、ゆっくり歌いながら、おどり出しました。 

 五万石でも、おかざきさまは
 アーヨイコノシャンセ
 お城下まで船がつく ションガイナ‥‥‥

――――おお、あの歌は、岡崎の五万石だ。
和尚さんはおどろいて、大きな木のかげから、二人のおどりに見とれていました。
 そのころ岡崎の町は、征夷大将軍という、国いちばんの大将の位をいただいた、徳川家康の生まれた地としてうやまわれ『五万石』の歌は、国じゅうに知れわたっていたのです。
 七助とふふは、和尚さんに見られているとも知らずに、身ぶり手ぶりも面白く、おどりつづけていました。

 矢作上れば お城が見ゆる
 アーヨイコノシャンセ

 和尚さんもとうとうおどりたくなり、木のかげからとび出し、二人のまねをしながら、おどり出しました。
 三人がおどりつかれた時は、夜は明けはじめていました。
 その朝、和尚さんとおだいこくが、七助夫婦から聞いた二人の身の上話はこうでした。

 七助とふふのふるさとは、岡崎です。
 ふふは武家に生まれましたが、小さい時両親に死に別れ、叶屋という岡崎一の遊女屋へ引き取られ、遊女になりました。
 ふふは美しい顔立ちをしているばかりか、武家の娘として心得ておかなければならない、武道、歌道、茶道なども上手でしたから、
「ふふを妻にしたい。」
「ふふを側室にむかえたい。」
 などといって、大名(一万石の以上の武士)や百万長者(金持ち)がつぎつぎ叶屋へやってくるのでした。
 そのなかでも大名の原田門四郎が、ふふを側室にしようと、深く思いこんであきらめませんでした。
 でもふふは、だれのところへも行こうとしませんでした。そればかりか、
――――遊女をやめ、尼(女の坊さん)になろう。
 と、ひそかに思っていました。
 ところが秋のある日ふふは、米問屋伊勢屋の茶会にまねかれ、露地庭から茶室へ行くとちゅう、飛び石につまずきころんでしまいました。
 その時、落ち葉をはき集めていた下男が、ふふをだきおこし、
「どこも、けがをしなかったかね。」
 とやさしく聞きました。
「は、はい、ありがとう。」
 その時ふふと下男の目が合いました。そのとたん、ふふは、目の前がぼーっとなり、顔があかくなりました。ふふが、男の人の前で、こんなふうになったのは、はじめてでした。
――――顔や姿はみにくいが、心のやさしい人にちがいない。
 ふふはその時、そんなふうに思ったのでした。その下男が、七助だったのです。
――――岡崎一の美人だといわれている人だが、どこかさびしそうな人だなあ。
 七助もふふを、そんなふうに見ました。
 その後、七助とふふは、二度、三度と、出会っているうちに、とうとうめおとの約束をしました。
 でも、こうこのことが、原田門四郎に知られたら、どんなことになるかわかりません。
 そのころ大名は、望みのものは、どんなことをしても手に入れたものでした。そんなわけで、七助とふふは、めおとになるためには、岡崎の町を出るほかはないと話し合いました。
「しなのの国あづみの里へ行こう、そこには、広々した豊かな土地があって、人情もあついという。」
 七助が思いつめたようにいいました。
「あなたの行かれるところなら、たとえ地の果て、海の果て、どこまでもついてまいります。」
 ふふは顔をかがやかせました。
  しなのの国あづみと岡崎は、岡崎を拠点とする塩の道でつながっていたのです。
 岡崎は、矢作川の舟運で、港町として知られ、塩や干魚をしなのの国へ、しなのの国からは、山の産物や御用米が、塩の道で運ばれていたのです。
 また岡崎城は、桜の名所として知られ、卯月(四月)十日の夜桜祭りには、町じゅうの人が、思い思いの変装をして集まり『五万石』おどりをおどるのでした。
 去年の夜桜祭りには、ひょっとこの面をつけた七助と、おかめの面をつけたふふが、このおどりの輪の中にいたのです。
 そして夜もふけたころ、七助とふふは、お面をつけたまま、おどりの輪から、そっとぬけ出し、お城に近い。乙川の船着場に、だれにもあやしまれずに着きました。
「さ、兄さ、早く、早く。」
船着場には、七助の弟船頭八助が、その前日話し合ったとおり、七助夫婦の旅じたくと、小船を用意して、待っていたのです。
 七助とふふはすばやく、はずした面を荷に入れ、ぞうりをわらじにはきかえると、その二人のぞうりを、川ばたへきちんとならべ、二人いっしょに、川の中へ飛びこんで、死んでしまったように見せかけました。
 そして、三人は小船に乗ると、矢作川へ回り、矢作橋で、七助とふふは船をおりました。
「八助、おとうとおかあを大事にな。」
「ふふさんも、兄さんも、たっしゃでな。」
「あい、八助さんも、体に気をつけて。」
 三人は、涙ながらに別れました。
 七助とふふは、八助と別れてから、塩の道にでて、それから山道づたいに、しなのの国さして旅をつづけました。そして、半年がかりで、あづみまでたどり着いたのでした。
 その間、天気の日は、野にねて、雨の日は、辻道(道ばたの仏堂)などにとまったものでした。
「正科へ着いた時は、路銀を使い果たし。」
「和尚さんのお情けに、おすがりしたのです。」
 七助夫婦は語り終えると、あらためて、和尚さんとおだいこくに、お礼をいいました。
 和尚さんは、七助夫婦に、たいそう感心して、『五万石』おどりを、正科神社の祭りに奉納しようと、村の人たちにはかりました。
 そのわけは、
 おかめの面は、人の心をなごませ、ひょっとこの面は、火ふき竹をふく人の顔ににているから、日の神荒神様をまつってある、竈神社とは、関係がある。
 また、清らかな愛を、困難に打ち勝ってつらぬいた七助夫婦は若者の鏡だ。
 と、いうのでした。
 村の人たちは、和尚さんの考えに賛成し、毎年九月十四日の夜と、十五日の正科神社の祭りには、村の若者二人が、おかめの面とひょっとこの面をつけ、『五万石』おどりを『岡崎おどり』とあらため、奉納することにしました。そして今もつづいています。

池田町では、このおどりを、民俗芸能文化財として、指定しました。
(安曇野自動文学会編「池田の民話」より)

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