電脳文字対話 29(映画『オッペンハイマー』を観て)

 彼:映画「オッペンハイマー」を観てきたんだって?
 
私:うん。
 
彼:で、どうだったんだい?
 
私:結論からいうと(ネタバレあり、納得したうえで読んでください)、さすがアカデミー賞を総なめにしただけのことがある傑作で、日本人も観るべき映画だと思う(ただし、核についての研究過程の歴史的な流れやそれが原爆開発へとつなげられる過程などについて、あるいは過去の「赤狩り」の歴史などについては、ある程度の予備知識を入れて行ったほうがよいでしょう)
 
彼:意外だね。ひと昔前までなら、「原爆は戦争を早く終結させて、その結果たくさんの人びとの命を救ったんだ」という論理がくり返されるというのがアメリカ側のお決まりだったけど。
 
私:それはもう、だいぶ前の話だよ。アメリカも世界全体も核兵器や原爆に対する考えかたは進化している。もちろんこの映画が素晴らしいといっても、そこには留保が必要で、加害者側が作ったことによる限界というものもどうしてもある。けれども、この映画はオッペンハイマーについての伝記本が原作になっており、それだけに映画の大部分は、 “原爆の父” とよばれた彼の視点からの描写や、彼に焦点を当てた描写が占めている(モノクロのストローズの公聴会は別だが)。しかも彼を英雄扱いするだけではなく、しっかりと戦後に罪悪感にかられ苦しむシーンも描かれている。それだけに観客は、核分裂実験に初めて成功したマンハッタン計画のリーダー、オッペンハイマーの栄光と苦悩のありかたを臨場感をもって味わうことになるんだけれども(変わった性格のため、完全な感情移入は難しいかもしれないが)、このことは映画を観終わったあと、ぼくらをある種の複雑な想像力の旅路へと誘ってくれるだろう。

 ぼく自身に関していえば、映画を観ながらずっと何か “デジャブ感” を感じていたんだけれど、そのデジャブ感の源は、国語学者・時枝誠記が戦後だいぶたってから、戦中の言説に対する批判をうけた問題だった。ぼくはそれについて90年代に徹底的に調べたんだけれども、そのときやはり時枝も(規模は違うが)がんじがらめの環境の中でそれなりの栄光と苦悩を味わっていた(彼の場合、自らの没後、何年もたってからその言説の政治性を取りあげられ、批判されるという事態となり、それに対して部外者の私が評論を書いて反論するという流れも一時存在した)。そのときぼくが考えたのは、もしぼくが彼だったらどうしただろう、ということだ。こうした “思考実験” はきわめて重要で、それによって初めて本人のみが感じうる重圧や悩みなどを疑似体験できうるのであり、過去の特殊な時代環境にいた人を今の常識的な立場から批判することに果たしてどれだけの意義があるのか、疑問を感じることができるだろう。その意味で、この「オッペンハイマー」という映画は、核に関するそうした “思考実験” の手助けをしてくれることはまちがいなく、それゆえにきわめて有意義な映画であり、中高生にもたくさん観てもらいたいと思ったんだけれども…
 
彼:R15なんだよね。
 
私:まあ、性描写があるからね。でも、高校生は見られるよね。
 
彼:何か、音響の効果が凄かったという話を聞いたことがあるんだが…
 
私:一番凄かったのは「足踏み」の音響効果だね。これは凄い大音量で、大人数による「足踏み」音が導入されるんだけれども、冒頭の聴聞会のシーン、恋人のジーン・タトロックが亡くなるシーン、原爆の与えた被害が分かるシーンなど何回も繰り返され、あとのほうでそれが実は原爆投下後、英雄たるオッペンハイマーによるスピーチを待つ人びとの熱狂的な期待感をあらわす足踏みであったことが明かされるんだ。これにはぞーっとしたね。スピーチのためオッペンハイマーが登場すると、原爆投下の成功を礼賛する彼らの拍手と熱狂的な笑顔の高揚感は加速して、まるで恐怖映画のようだった。ところがこのときオッペンハイマーはすでに原爆の被害の状況を見ていたので、そのことによって罪悪感が生じており、スピーチの際、彼の耳には人びとの喝采はいっさい聞こえていない映像構成になっていた。
 
彼:聞いてるだけで怖くなってくるな。
 
私:そして、ここにこそ「戦争」はあるってぼくは感じた。このオッペンハイマーの味わった「地獄」は、自省心のある少なからぬアメリカ人も共有しているものと思われるのであり、被爆国の日本人がこの映画をとおしてそのことについて知ることも、また大きな意味があることなのではないだろうか。
 
彼:そのスピーチのシーンはトラウマになりそうだな。
 
私:きみはそんなやわな輩じゃないだろう。
 
彼:まあ、俺にも繊細なところがあるんだよ。
 ところで、核分裂についての研究過程はちゃんと描かれていたのかい?
 
私:いや、あくまでもオッペンハイマーの伝記を元にした映画だから、そこは省略されていたね。さすがにオットー・ハーンとシュトラースマンが中性子線を利用して原子を崩壊させる過程の謎を解いたとき、その一報を科学者たちが熱狂をもって受け入れていた様子は描写されていたけれども。このとき、レオ・シラードという人物は、いち早く連鎖反応の可能性と爆弾製造への流れを予見して、海軍その他いろいろなグループに働きかけをしたり、その後アインシュタインに事情を説明してアインシュタインに草稿を準備してもらい、ホワイトハウス宛ての手紙を送ってもらったりしているんだ(村上陽一郎『科学者とは何か』)。このシラードという科学者は、一貫して死に物狂いで原爆の投下を阻止しようとした人物だったんだけれども、映画の中でオッペンハイマーと関わるとき、少し「悪人顔」っぽく描かれていた。それが少し気になりはしたけど、まあそれほど気にすることではないのかもしれない。
 
彼:ところでアインシュタインはどんな役で出てたんだい?
 
私:核の連鎖反応についての理論的にきわめてシビアな疑問点について、オッペンハイマーから質問を受けたり、戦後(1947年)にプリンストン高等研究所でオッペンハイマーと再会して短い会話を交わす程度の役なんだけれども、この短い会話の内容は最後に明らかとなり、そしてこれがエンディングのシーンとなるんだ。
 
彼:最後、どんな会話が交わされるんだい?
 
私:短い会話の最後は以下のようなものだ。
 

オッペンハイマー「アインシュタイン博士。いつか計算式を持ってあなたに会いに行きましたよね。そこで、私たちは全世界を破壊する核の連鎖反応を起こしてしまうかもしれないという話をしました」

アインシュタイン「ああ、覚えているよ。それがどうかしたのかい?」

オッペンハイマー「その通りになりました」

 
彼:その後、エンドロールが流れてくるんだ?
 
私:そう。それでエンドロールが流れているあいだ、みんなそれぞれに深遠な時間を過ごすことになる。その言葉の意味を考えるわけだよ。
 
彼:ソ連との「冷戦」が続いたこととかか?
 
私:それだけじゃなく、今も…。
 
彼:なるほど、皆まで言わずともわかるよ。物理的な次元の話だけではなく、製造責任者のオッペンハイマーのような人や、良識ある一般のアメリカ人の心まで壊してしまっているかもしれないことを暗示しているんだろう。
 
私:そう。あえていえばそれだけじゃなく、核について自由に闊達に議論する風潮をこれまで作ってこられなかったわれわれ日本人も、その言葉から気づくことがあるかもしれないよね。
 
彼:ところできみは広島出身だけど、きみの両親とかは原爆の影響を受けていないのかい?
 
私:そういえばいま気づいたんだけれども、ぼくは今までこの種の質問を受けたことがない。きみが初めてだよ。たぶん、こういうことってみんな、興味があっても聞きづらいんだろうね。
うちは母方は満州にいたし、父方は当時呉に住んでいて、父は少年だったけれども、原爆雲だけは見えたみたいなことを、たしか私が子どものころ言っていたように記憶している(今となっては真偽のほどはわからない)。だから直接的な影響はないと思う。
 
彼:日本人のなかには、実際の広島や長崎の被害映像が流れないことを問題視する向きもあるみたいだけど。
 
私:だからといって、この映画が原爆投下を礼賛する映画ではないことはたしかだし、原爆投下によって加害者側も苦しんでいることや、世界がそう簡単にこの投下の事実を許しているわけでもないことが伝わる作品なだけに、ぼくは被害映像のあるなしについてあまり問題視はしなくていいのではないかと思っている。
 
彼:なるほど、参考になったよ。俺も観てこようかな。
 
私:考察動画がたくさんあるから、それを見ていくといいかもね。ストローズの公聴会のシーン(モノクロ)とオッペンハイマーの聴聞会のシーン(カラー)の話の詳細とか、トリニティ実験の話とか、ここではまったくしなかったけど、そういった細かい設定はぜひ動画とかでチェックしといてね。あと、IMAXで観ると迫力があって凄いらしいよ。
 
彼:ありがとう。
 
 
 


 (2024年5月13日)

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