時枝誠記と現象学 3

第2章 詞辞論

第2節 実証性の追究


大野晋のエピソード

 1945年の上半期、日本は戦況が悪化し、東京はたびたび空襲に見舞われていましたが、そんな中、国語学者の大野晋(おおの すすむ)は東大国語研究室において、時枝による源氏物語の講読の授業に参加していました。食べ物もままならない状況下で、イモの葉を湯がいて塩をかけて食べる「お十時」の儀式が終わると、さっそく授業が始まるという具合いでした。

《…夜おそくまで研究室で私は時枝先生に質問した。先生は反論された。「理論的におかしいというなら、具体的問題の、どれが解けないか。別の理論によって、それがどう解けるか」それの説明が求められた。(中略)私は一生の間で、これほど真剣に必死に学問上の議論をしたことは、後に、万葉集の注釈で、五味智英先生と議論を交わした時以外にないかもしれない》(大野晋「戦争中の時枝先生」、『国語研究室 第八号』【東大国語研究室、1968年10月】所収。43頁)

 これは、1945年のエピソードですが、かつて「古典註釈に現れた語学的方法」(1)や「契沖の文献学の発展と仮名遣い説の成長及びその交渉について」(2)、「語の意味の体系的組織は可能であるか」(3)などで実証的手法を用い、注釈の本質や語の意味の体系的組織などについて追究した時枝誠記という学者の本質をよくあらわしているエピソードだと思います。西欧の言語学を指導的理論として仰いだ公式主義がはびこった時代に、時枝は目の前の国語の現実から逃げずに、それを直視してそれらをも包摂した理論を構築しようとしていました。おそらく国語意識の発達の歴史や古典註釈の研究などをへて、1930年代中頃に時枝が実際の現代の国語事象に目を向けたとき、同時代の言語理論および文法理論と国語の現実とのあいだに大きな齟齬を感じたものと思われます。《「文献学的国語学に終始するつもりなら、わけのないことだがね」というのは、彼の口グセだった》(4)とは学生時代から時枝を知る吉田澄夫の言葉ですが、「文献学的国語学」とは、おそらく現実を説明できなくても意に介さない公式主義的な理論のことをさすものと思われます。

〈形容詞〉か〈副詞〉かの問題

 たとえば、論文「国語の品詞分類についての疑点」(5)の冒頭で、時枝は次のような問題提起をします。

《 私は、学窓を出て間もない若い一教師から、次の様な質問を受けたことがあつた。
『早く起きる。
私は、右の用例に於いて、早くは形容詞の連用形であると説明した処、一生徒は立つて、「起きる」を限定修飾するから副詞ではないかと質問した。然り、それは形容詞が副詞に転成されたものであると答へた。副詞となつたものならば、明らかに副詞であつて、もはや形容詞ではないではないかと云ふ反問が、生徒の顔に読めたが、私もそれ以上何も云はずに過ぎてしまつた。私自身否とも然りとも答へる自信を失つてしまつたからである。如何に処置すべきが至当であつただらうか』
 その時私は、若き教師が、教室に於いて経験したと同様な当惑を感ぜずには居られなかつた。「なる程」とうなづいて、沈黙してしまふより他に、術がなかつたのである。併し乍ら、事もなげに見えた此の質問は、それから後も、常に私の胸中を往来して、解決を逃避せしめまいとつけねらふものの様に見えたのであつた。この問題の要求する処は、既に文中に分析された一の単語が、如何なる種類の単語に所属するかを決定することである。其の際、一の単語が、ニの範疇の何れにも所属することが答へられた。そのニの答は、一見何れも真であるかの様に考へられる。而も我々は、その何れか一を採つて、他を捨てなければならないことを要求される。何となれば、一のものが、何等の理由、何等の根拠の相違なくして、ニの同位の範疇に所属するといふことは許されないからである》(時枝誠記「国語の品詞分類についての疑点」太字は原文では傍線)

 実際、この「早く」の例だけでなく、日本語には数多くの「連用修飾的用法」すなわち「副詞的用法」が存在します。「高すぎる」「厚かましい」「痛痒い」「狭苦しい」「薄汚い」など、〈形容詞〉の語幹に〈形容詞〉あるいは〈動詞〉を組み合わせた場合や、「美しく咲く」「遅く帰る」「うまくかわす」など〈動詞〉に〈形容詞〉の連用形がつく場合、「見て楽しむ」「踊って過ごす」「狙ってしとめる」など、〈動詞〉に〈動詞〉の連用形あるいはそれに〈助動詞〉の加わったものがつく場合など、この種の用法にはさまざまなものがあります。明治時代には、欧米の文法書にならって〈動詞〉や〈形容詞〉を「修飾する」語が〈副詞〉(adverv)であるとされていたので、以上のようなさまざまな〈動詞〉〈形容詞〉も〈副詞〉への転成として解釈する学者が多く存在していました。この、ある意味混乱にも似た状況に終止符を打つべく、さっそうとして登場したのが山田孝雄でした。

 山田孝雄は、『日本文法論』(6)において、以上のような〈動詞〉〈形容詞〉の〈副詞〉的用法や〈助詞〉を伴う〈副詞〉的用法を「誤謬」として断罪し、これらを〈副詞〉の規定から除外しました。以下は、三浦つとむによる山田の〈副詞〉論についての概説です。

《 山田はいう。「これらの誤謬の由て来る処は実に本性的研究と応用的研究とを混同せるが故なり。この説の如くせば一切の品詞は又一切の品詞に転用しうべく、ここに一切の区別は消滅するなり。」右の場合でいうならば、〈形容詞〉や〈動詞〉の本性すなわち本質が何であるかということと、それらの語がどこに使われてどのような機能を果すかということとは、明確に区別しなければならないのであって、応用として使われたものを本性と混同してはならないのである。〈動詞〉に「副フ」〈形容詞〉や〈動詞〉を〈副詞〉と考えるのは、このような混同にほかならない。そして山田は、同じ属性表現の中に、その本性として主位に立つものと副用的に依存するものとを区別して、〈動詞〉〈形容詞〉はすなわち本性として主位に立つもの、〈副詞〉はすなわち本性として依存するものと見た。「副詞は意義よりしていへば属性観念をあらはし職能上よりいへば唯依存的にして、形体上よりいへば大抵助詞『に』『と』『の』に接しうべきものなり。」と、山田は規定している。簡単にいうなら、他の属性表現の語に依存的に使われることを本質とする属性表現の語が、〈副詞〉なのである。ここまでは山田の〈副詞〉についての理解は正当であった》(三浦つとむ『日本語の文法』【勁草書房、1975年】236〜237頁。太字は原文では傍点)

 このように三浦は、山田が〈副詞〉の本質を、同じ属性表現の語である〈動詞〉〈形容詞〉とちがって依存的に使われることに見たことを評価していますが、そこからさらに山田が「副用」の観点から〈接続詞〉や〈感動詞〉までを一括して〈副詞〉と規定したことには異議を唱えています。このように、山田による〈形容詞〉や〈動詞〉の〈副詞〉的用法など「応用的」方面を除外した〈副詞〉の規定は、説明の仕方は違えど、現在の学校文法にも通ずるところがあるといえるでしょう(現在の学校文法では、〈副詞〉は「自立語」で「連用修飾する語」としつつ、「活用」するものや「主語」になるものを除外するなどとしています)。山田はまた、自ら《分析的静的本性的研究をなすべき》ことを宣言し、先の「早く」の例など《総合的動的応用的方面の現象》などは捨象するべきことを主張しています(7)。

 一方、時枝は、さきの一教師の悩みが自らの悩みでもあることを告白していたエピソードからも分かるように、山田のいう《総合的動的応用的方面の現象》をも包括しうる理論の構築を模索していました。そして、時枝はのちに独自の新しい詞辞論を構築して、この問題に解決を与えています。

《 花が美しく咲いている。
 「美しく」を形容詞と見るべきか、副詞と見るべきかについて疑問が起こる。これを形容詞と見る立場は、この語を用言の一活用形と見るのであつて、その場合、この語の、この文に於ける職能といふものは考慮の外に置かれてゐる。それは、「美しい」といふ語は、用言として、本来、無格性のものであるから、この語の品詞が何であるかと問はれるならば、右のやうに答へるのは当然である。今、この語を副詞と見る立場は、この語の持つ連用修飾的陳述をも含めて云ふのであって、実は、そのやうな連用修飾的陳述は、零記号の形式を以てこの語に別に加へられたものと解することは、無格性を本体とする国語の単語に於いて当然認められなければならないことである》(『日本文法 口語篇』【岩波書店、1950年】P117〜118。太字は原文では傍線)

 時枝の詞辞論においては、客体的表現である詞(〈動詞〉、〈形容詞〉、〈名詞〉など)には、すべて主体的表現である辞(〈助詞〉、〈助動詞〉、零記号の「■」など)が伴うことになっているので、この場合の「美しく」は零記号の陳述を伴って「美しく■」となり、この〈副詞〉的陳述「■」の随伴によって用言の〈副詞〉的用法が可能となっているのだ、と理解されることになるのです。そうして、さきの「早く」を〈形容詞〉と見るか、〈副詞〉と見るかという問題に即していうならば、《もし副詞の名称も広義に解するならば、この語の、この場合の用法に即して副詞といふことが許される》(同書 118頁)という解決を与えています。

 このような〈形容詞〉の〈副詞〉的用法の問題だけでなく、〈助詞〉〈助動詞〉と〈接尾語〉の区別の問題や、二種類存在する「ある」の区別の問題など、現実に私たちが日々直面する日本語の難問を説明しうる文法理論を模索する中で、時枝の詞辞論は成立したものと思われます。そして、同時に、このような詞辞論成立の背景には、大野晋が紹介していたような、時枝の、あくまで理論的な整合性を追究するという、実証主義的な性格が影響していたものと私は考えます。

1937年という境界

 『講座 日本語の文法 別巻』(8)に収められた「文法論の展開」という座談会の中で、時枝の弟子筋にあたる森岡健二が面白いことを述べています。

《森岡 私も、(中略)卒業論文のときから、昭和一二年に言語過程説が成立するまで、(時枝--引用者)先生が自分自身の言語観を確立するための思索をしながら新しい問題を見出し、かつ、追究しておられたことは、たしかだと思います。それを国語学史のいろんな材料をもとにしてみたり、仙覚を取り上げてみたり、また、源氏などの材料を使ったりしながら、なさったんですけれども、ただ、私は、(中略)昭和一二年以前と以後では、言語研究に対する方法的な違いをどうしても感じるんです。一二年以前は --- そのあとの論文が実証的でなくなったという意味ではありませんけれども --- 非常に実証的な方法をとっておられるわけです。それに対して、言語過程説が成立して以後はむしろ、理論のほうが先に出てしまって、事実をこまかく分析していくよりも、自分の理論を表面に出すという方向にいってしまった。そういう点で、過程説模索時代の先生の仕事は、ケース・バイ・ケースで統一的方法がないにしても、実証的には優れていると思います。実をいうと、過程説以後もその実証的な分析の方法をとっておられれば、いっそう過程説というものが光ってきたのじゃないかと、ふだんから思っているんです》(「文法論の展開」、『講座 日本語の文法 別巻』所収【119~120頁】。太字は引用者)

 ここで森岡健二は、言語過程説成立以降、時枝は以前より実証主義的でなくなってしまったのではないかと疑問を呈しています。たしかに、言語過程説を提唱し始めた1937年以降、時枝は、「語の意味の体系的組織は可能であるか」(1936年)のような多くの用例を基に、帰納的方法を媒介として語の意味の体系的組織を構築しようとするなど、そういった壮大な実証主義的方法の試みは影を潜めてしまった感はあります。少なくとも、そういった傾向はあるとは思います。けれども、すでに確固とした自らの言語本質観や文法理論が存在する場合、それらによって現実の諸々の問題をどのように説明し記述することができるだろうか、という方向に研究の力点が向いてしまうことは、ある程度仕方のないことではないでしょうか。同じく時枝の弟子筋にあたる永野賢は、次のように述べています。

《永野 それは、私はある意味では必然的ないきかただったと思うんです。つまり、言語過程説というのを、ある人が、コペルニクス的な理論だと評しましたけれども、そういう確固とした考えに到達したら、こんどはその言語観でもってあらゆる問題をどういうふうに処理できるか、あるいは、処理したらよいかという筋書きを、洗いざらいやろうとされた。だから、むしろ、先生の筋書きにしたがって、弟子どもがそれらの領域をもっと克明に、実証的に追跡をやらなければならなかった…》(『講座 日本語の文法 別巻』121頁)

 ちなみに、ここで紹介されている、時枝の理論を「コペルニクス的な理論だ」と評したのは、三浦つとむでした(9)。コペルニクスの地動説は、成立したあとでその真実性を認められるまで長い年月がかかっています。森岡氏のいう「実証性の追究」は、むしろ弟子たちにこそ必要とされているのではないでしょうか。


     〜〜〜

〔注〕

(1)時枝誠記「古典註釈に現れた語学的方法 -- 特に万葉集仙覚抄に於ける --」(京城帝国大学法文学会論纂『日本文化叢考』【東京刀江書院、1931年9月】所収)

(2)時枝誠記「契沖の文献学の発展と仮名遣い説の成長及びその交渉について」(佐佐木信綱博士還暦記念論文集『日本文学論纂』【明治書院、1932年6月】所収)

(3)時枝誠記「語の意味の体系的組織は可能であるか -- 此の問題の由来とその解決に必要な準備的調査 --」(京城帝国大学文学会論纂第二輯『日本文学研究』【大阪屋号書店、1936年3月】所収)

(4)『国語研究室 第八号』(東大国語研究室、1968年10月)23頁。

(5)時枝誠記「国語の品詞分類についての疑点」(『国語と国文学』、1936年10月)

(6)山田孝雄『日本文法論』(宝文館、1908年)462~467頁。

(7)山田孝雄『日本文法論』464頁。

(8)松村明ら編『講座 日本語の文法 別巻(シンポジウム時枝文法)』(明治書院、1968年)

(9)三浦つとむ「時枝誠記の言語過程説」(『言語学と記号学』【勁草書房、1977年】所収。191~197頁)。この論文の初出は、『文学』(岩波書店、1968年2月号)。


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