「空気」と規範 5

「だまされること」、その背景のパターン

 伊丹万作は次のようにも述べています。

 《「だまされていた」という一語の持つ便利な効果におぼれて、一切の責任から解放された気でいる多くの人々の安易きわまる態度を見るとき、私は日本国民の将来に対して暗澹たる不安を感ぜざるを得ない。
 「だまされていた」といって平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でもだまされるだろう。いや、現在もすでに別のうそによってだまされ始めているにちがいないのである。
 一度だまされたら、二度とだまされまいとする真剣な自己反省と努力がなければ人間が進歩するわけはない。この意味から戦犯者の追求ということもむろん重要ではあるが、それ以上に現在の日本に必要なことは、まず国民全体がだまされたということの意味を本当に理解し、だまされるような脆弱な自分というものを解剖し、分析し、徹底的に自己を改造する努力を始めることである

伊丹万作「戦争責任者の問題」(太字は引用者)


 大ざっぱに、詐欺などで人がだまされるときの流れを見てみると、おおよそ次のようなものではないかと思われます。何らかの事件や事故が起こったとされてパニック状態にさせられ、そして時間的猶予を与えられない状態におかれ、その状態で二者択一の選択を迫られ、自分の専門外のことについて真実らしいウソをつかれ、真実らしい誘導をされてしまい、その結果だまされてしまう、という流れです。コロナパンデミックなどはまさにそうした例に該当するのではないでしょうか(もちろん、その真偽のほどの多くはこれから徐々に明らかになっていくのだと思います)。かく言う私自身、実はけっこうだまされやすい性格だと自分では思っています。今回(のパンデミック)は早い段階で、たまたま近くに助言してくれるひとがいたので、自分で調べてみようという気になれたまでであり、今回だまされた人たちが多かった事実もいたしかたないことだったと思っております。ただ、何か大きな出来事が起き、時間的猶予を与えられず、それらしいことを言われて二者択一をせまられた時は、パターン的に要注意の局面ですよ、という注意喚起はしておきたいと思います。


支配層はなぜだまそうとするのか?

 そもそも、支配層はなぜ人びとをだまそうとするのでしょうか? それは、基本的に人びとにウソの規範を植えつけ、それによってだまし合いの構造をつくり出すことがもっとも効率よく人びとを支配することになる、と理解しているからではないでしょうか。支配層が人びとを統制しようという場合、昔のように、憲兵なんかを使って肉体的に締め上げても、人びとは逆に「なにくそ!」と一致団結して歯向かってくるかもしれません。そして、大衆は人数でまさっています。ならば、人びとが嬉々として、自らすすんでお互いにだまし合う構造を作り出せばよい、ということになり、そのときもっとも役に立つものが、人びとの頭の中に都合のよい規範を植えつけること、になるのかもしれません(その際、マスコミや公の機関、さらにはSNSなどは規範成立のための情報を発信してくれるので、規範を植えつけるためには格好の役割を果たしてくれることになります)。頭の中に規範を植えつけてしまえば、人びとは勝手に、嬉々として、規範に従って行動してくれるようになるので、あとは勝手にだまし合いがくり返されていくことになるわけです。

 だまされるときというのは、さきほど示唆したように、おおよその場合がパニック状態になり(詐欺の場合だと、「銀行カードよりお金が引き出されました」などと伝え相手をパニック状態にする)、時間的猶予を与えられずにある種の選択をせまられるときです。そういうときは、まず時間的猶予を確保して、目の前の問題の「ここだけは譲れない」という自分の着眼点を大事にし、その点を徹底的に追究してみることが大事だと思います。かつまた、マスコミやSNSのインフルエンサーの情報を鵜吞みにしないしない冷静さも必要でしょう(今回も、ワクチンに関するたくさんの「案件動画」が存在していたことが徐々に明らかになりつつあります)。そして、他人を「だまさない」ためには、支配層がなぜだまそうとしているのかについて、もう一度思い返し、自分が「嬉々として受け売りの話を他人にしようとしていないか」、チェックしてみることも有効な手立てとなってくるのではないでしょうか。

 

戦艦大和が特攻出撃した際の「空気」について

 さきに私は戦艦大和の「空気」事例における「不文律の内容が伝達される過程が不明であ(る)」と述べましたが、最後にこの問題について考えてみようと思います。つまりこの不可解とされる「空気」の力、およびその「伝達過程」について、できるだけ迫ってみようと思います。山本氏の言葉をもう一度引用しておきます。

 

《驚いたことに、「文藝春秋」昭和五十年八月号の『戦艦大和』(吉田満監修構成)でも、「全般の空気よりして、当時も今日も(大和の)特攻出撃は当然と思う」(軍令部次長・小沢治三郎中将)という発言がでてくる。この文章を読んでみると、大和の出撃を無謀とする人びとにはすべて、それを無謀と断ずるに至る細かいデータ、すなわち明確な根拠がある。だが一方、当然とする方の主張はそういったデータ乃至根拠は全くなく、その正当性の根拠は専ら「空気」なのである。従ってここでも、あらゆる議論は最後には「空気」できめられる。最終的決定を下し、「そうせざるを得なくしている」力をもっているのは一に「空気」であって、それ以外にない。これは非常に興味深い事実である。(中略)
 
 注意すべきことは、そこ(『戦艦大和』の意志決定過程――引用者)に登場するのがみな、海も船も空も知りつくした専門家だけであって素人の意見は介入していないこと。そして米軍という相手は、昭和十六年以来戦いつづけており、相手の実力も完全に知っていること。いわばベテランのエリート集団の判断であって、無知・不見識・情報不足による錯誤は考えられないことである。まずサイパン陥落時にこの案が出されるが、「軍令部は到達までの困難と、到達しても機関、水圧、電力などが無傷でなくては主砲の射撃が行ないえないこと等を理由にこれをしりぞけた」となる。従って理屈から言えば、沖縄の場合、サイパンの場合とちがって「無傷で到達できる」という判断、その判断の基礎となりうる客観情勢の変化、それを裏づけるデータがない限り、大和出撃は論理的にはありえない。だがそういう変化はあったとは思えない。もし、サイパン・沖縄の両データをコンピューターで処理してコンピューターに判断させたら、サイパン時の否は当然に沖縄時の否であったろう。従ってこれは、前に引用した「全般の空気よりして……」が示すように、サイパン時になかった「空気」が沖縄時には生じ、その「空気」が決定したと考える以外にない。
 
 このことを明確に表しているのが、三上参謀と伊藤長官の会話であろう。伊藤長官はその「空気」を知らないから、当然にこの作戦は納得できない。第一、説明している三上参謀自身が「いかなる状況にあろうとも、裸の艦隊を敵機動部隊が跳梁する外海に突入させるということは、作戦として形を為さない。それは明白な事実である」と思っているから、その人間の説明を、伊藤長官が納得するはずはない。だが、「陸軍の総反撃に呼応し、敵上陸地点に切りこみ、ノシあげて陸兵になるところまでお考えいただきたい」といわれれば、ベテランであるだけ余計に、この一言の意味するところがわかり、それがもう議論の対象にならぬ空気の決定だとわかる。そこで彼は反論も不審の究明もやめ「それならば何をかいわんや、よく了解した」と答えた。この「了解」の意味は、もちろん、相手の説明が論理的に納得できたの意味ではない。それが不可能のことは、サイパンで論証ずみのはずである。従って彼は、「空気の決定であることを、了解した」のであり、そうならば、もう何を言っても無駄、従って「それならば何をかいわんや」とならざるを得ない。
 
 ではこれに対する最高責任者、連合艦隊司令長官の戦後の言葉はどうか。「戦後、本作戦の無謀を難詰する世論や史家の論評に対しては、私は当時ああせざるを得なかったと答うる以上に弁疏(べんそ)しようと思わない」であって、いかなるデータに基づいてこの決断を下したかは明らかにしていない》

山本七平『「空気」の研究』



 上記の引用文によって、1945年4月当時、「海も船も空も知りつくした専門家」集団は、戦艦大和の沖縄における出撃は無謀であると結論づけていたにもかかわらず、三上参謀は伊藤長官に対し戦艦大和の沖縄における特攻出撃を示唆する言葉を伝え、伊藤長官はその言葉を受け入れる、という一連の流れを確認することができます。「陸軍の総反撃に呼応し、敵上陸地点に切りこみ、ノシあげて陸兵になるところまでお考えいただきたい」というのですから、三上参謀は敵機動部隊が待ち構えるところへ特攻出撃すべしと実質述べていることになり、しかも伊藤長官はそのことを「了解した」と述べていることになります。この一連の流れを山本氏は【「空気」が決定した】と表現しています。

 

戦艦大和出撃の背景の「臨在感的把握」について

 では、この場合の「対象の臨在感的把握」(対象に対するある種の強い感情移入のありかた)を分析するとした場合、どのようなものになるのでしょうか? このような歴史的な「空気」の場合、その「臨在感的把握」には複数の規範が複雑にからみ合っているものと思われます。おそらく近代日本人特有の「横並び意識」というものや、ルーズ・ベネディクトのいう「恥の文化」というもの、あるいは軍事専門的にもいろいろなことが関わっていたことでしょう。けれども私は、この場合もっとも深くかかわっていた「臨在感的把握」の対象は、1944年10月に初めて編成された神風特攻隊だったのではないかと推論しております。以下は、私の推論です。

 

①    劣勢の状況下においても、すでに自らの身を犠牲にして敵に体当たりして戦っている同胞がいるではないか。

②    つまり、劣勢の状況下においても逃げることは決して許されない。

③    神風特攻隊に倣って他部隊も身を犠牲にして最後まで攻撃に徹すべし(死をも厭わず戦うべし)。

 

というような論理構成による規範が働いていたのではないでしょうか? これはあくまで戦艦大和の例における「臨在感的把握」についての私個人の推論ですが、もちろん軍事研究の立場からはそのほかにもいろいろな原因が指摘できることでしょう。あくまでも軍事研究素人の私からしてみるならば、あのような特異な作戦を合理的に理解するには、こうでも理解するよりほかはないような気がしています。このように、歴史的な「空気」における「臨在感的把握」ほど、人の命にかかわるものである場合が多く、そのために普通の「空気」よりもさらに深刻な様相を帯びてくることになります。当時の軍令部次長・小沢治三郎中将がそれから三十年後にも、「全般の空気よりして、当時も今日も特攻出撃は当然と思う」(『文藝春秋』昭和五十年八月号)と述べていたくらいなので、この場合の「対象の臨在感的把握」には凄まじいものがあったのではないかと推察されます。まさに、「日本の道徳は、現に自分が行なっていることの規範を言葉にすることを禁じており、それを口にすれば、たとえそれが事実でも、“口にしたということが不道徳行為”と見なされる。従ってそれを絶対に口にしてはいけない」(山本七平『「空気」の研究』)を地で行く感じがします。1945年の日本軍の戦いにおいては、いたるところで上のような論理構成の「対象の臨在感的把握」が働いていたのではないかと私は考えております。

 

新型コロナ・パンデミックにおける「臨在感的把握」

 2019年末、新型コロナの感染症の世界的な流行が始まり、2020年3月WHOはパンデミックを宣言します。いわゆる「コロナ騒動」が始まり、おおよそ日本では2023年春頃まで続くことになります(いまだに完全に終結したわけではなく、ワクチン接種問題はいまだに進行中の事案です)。この場合も独特の「空気」が存在し、それによって人びとの意志が支配されるという状況がたしかに現出しました。このコロナパンデミックにおける「対象の臨在感的把握」はどのようなものだったかというと、やはり「未知のウイルス(とされるもの)」に対する恐怖というものが大きかったと思います。しかも前世紀のパンデミックと違って、マスコミが世界中にネットワークを張りめぐらしており、スマートフォンが普及しSNSも発達した状況下でのパンデミックなので、この恐怖は世界中で共有される深刻な事態となりました(マスコミが「新型」のものとして流したウイルスとされるもののおどろおどろしい画像のインパクトも、恐怖を増長させるのに一役買ったと思います)。正確にいうと、政府は直接命令するかわりに医療機関およびマスコミを使って思想教育をして、善悪の判断をそのうちに含むところの新しい道徳的規範を作り、それにより人びとが教育された「感染対策」を自らの規範の意志に従って実施し、行動するよう誘導しました。自然成長性を装った冷徹な規範を人びとに維持させて、かつそれに従って行動させた、というわけです。

 日本では、もともと独特の「横並び意識」が強いところに「未知のウイルス(とされるもの)」に対する恐怖が喧伝されたものですから、2021年にワクチン接種の諾否が問われた際には「周囲のために打ちましょう」「思いやりワクチン」などという言葉が流行し、結局国民の8割がmRNAワクチンを打つという結果となりました(「家族や周囲に対する思いやり」というワードも、コロナ「空気」における「臨在感的把握」のひとつだと思います)。けれどもよく考えてみると、パンデミック宣言や緊急事態宣言によってパニック状態にさせられ、官僚や専門家たちによってそれらしい誘導をされ、時間的猶予もない中で二者択一をせまられる事態とは、まるで何かの手口とそっくりな感じがしないでしょうか。現在、ワクチンに関する人びとの考えかたは、ほぼ二極化しつつあると思います。一方には「ワクチン神話」を信じている(ようにみえる)官僚、政治家、マスコミ、医者、その他の協力者たちがいて、他方にはワクチンに対して懐疑的な多くの一般大衆がいる状態です。2024年秋からはレプリコンワクチンの接種計画があるとのことですが、高齢者ほど「ワクチン神話」に従順な傾向があるので気をつけなければならないと思います。すでにコロナパンデミックの「空気」は、第二次大戦時の「空気」に比例する80年に一度の歴史的な「空気」であるという説を紹介しましたが、1945年から80年後の2025年に何が起こるのか、私には何も分かりません。何も起こらないことを願います。


終わりに

 最後にいまだ現下の問題であるところのワクチン問題について触れてしまいましたが、私は何も分断を煽っているわけではありません。(ワクチンをダシにして)何者かわからない上からの圧力で分断をするように仕組まれているかもしれないので、規範論の立場からいうのであれば、私たちは(ワクチンに関しても)何らかの規範を植えつけられているかもしれないので、一度冷静になって自らの頭の中の意志や認識のありかたをチェックして対処しましょう、と言いたかっただけです。

 ここまで「空気」の支配の問題について三浦つとむの規範論の立場から論じてきましたが、おぼろげながらも分かってきたことは、そもそも「空気」による支配ということがたびたび問題とされる私たち日本人の頭の中には、幾重にも対象化された意志である規範が張りめぐらされ、それらが複雑にからみ合い、私たちの生きた意志はつねにそれら規範のからみ合いを統制し、つねに最終的な決断をせまられながらせわしく日常を送っているということです。私たち日本人に自死が多いということの背景についても、そこにはつねに頭の中で「ああしなさい、こうしなさい」と規範化された意志からの命令をうけている目に見えない構造が存在するのであり、これについて規範論の立場から論じてみる人がいてもよいのではないか、などと少し考えたりもしました。何度も同じことを言いますが、支配層が人びとを統制しようという場合、昔のように、憲兵や警察なんかを使って肉体的に締め上げても、人びとは逆に「なにくそ」と一致団結して歯向かってくるかもしれないのであり、そして、大衆は人数でまさっています。ならば、人びとが嬉々として、自らすすんでお互いにだまし合う構造を作り出せばよい、ということになるわけです。今回、私はその手に乗らないよう、三浦つとむの規範論を援用して、その練り上げられた騙し合いの構造について解剖し、理解する下地を提供し、そしてそれに対する若干の処方箋を書いてみた、というわけです。網状化され複雑化された規範からの命令に疲れたときは、ジョギングなど運動で脱力し、生きた意志を休ませてあげることが大切だと個人的には思っております。




(2024年5月4日 脱稿)


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