「空気」と規範 4

80年周期説の「空気」

 私は本稿の一番はじめに、明治維新から第二次世界大戦の敗戦までの歴史的規模での「空気」と、戦後の同じく歴史的規模での「空気」が似通っているという浜崎洋介氏の説を紹介しましたが、こうした考えかたは、歴史の80年周期説(高橋浩一郎『気候変動は歴史を変える』など)と軌を一にするものであり、Youtubeなどを見るといろいろな方がこうした説に関心をもっているようです。けれども明治維新(1968年)から第二次世界大戦の終了(1945年)までが約80年であることを考えると、敗戦(1945年)から80年後というと2025年頃ということになり、さきに浜崎氏があげた「構造改革」という出来事(2005年頃)は80年周期説の区切りの出来事としては少し時期がズレているように思われます。やはり戦後80年という時期とぴったりの出来事とはコロナパンデミック(2019年末~)ということになるでしょう。1945年のちょうど80年後が2025年、つまり来年ということになります。第二次世界大戦とコロナパンデミックを対比的に語ることについてはいろいろと議論があると思いますが、人びとが急激にだましだまされるという深刻な事態が発生したという面では共通しているので、とりあえずこの二つの歴史的な「空気」について、対比しながら考察してみようと思います(1935年の天皇機関説事件や国体明徴運動の約80年後に特定秘密保護法が施行され【2014年】、安保関連法が成立【2015年】していることはたしかに面白い対比をなしていると思います)。


伊丹万作の「戦争責任者の問題」

 1945年に敗戦を迎えた日本では、その後、戦争責任の問題についていろいろと活発に議論が行われましたが、その中でももっとも優れた所説を展開していた論者のひとりに、伊丹万作(いたみ まんさく)という映画監督がいます。伊丹氏の書いた「戦争責任者の問題」は、やさしい語り口で、生活者の目線から、戦時中の「だましだまされる」問題の真実について赤裸々に語っており、あまたの戦争責任に関する本の中でいまだに名著としての存在感を示しているものです。歴史的な傑作といってもよいでしょう。私がなぜ彼のこの文章をここでとりあげるかというと、もちろん傑作だからですが、それと同時に当時の「空気」のありかたをここまで実直かつ謙虚な態度で克明に、赤裸々に表現しえた例は稀だからです(青空文庫に入っていますので、ネット環境が整っていれば、今では誰でもすぐに読むことができます。仮名遣いは現代仮名遣いにしています)。さっそく見ていきましょう。

《さて、多くの人が、今度の戦争でだまされていたという。みながみな口を揃えてだまされていたという。私の知っている範囲ではおれがだましたのだといった人間はまだ一人もいない。ここらあたりから、もうぼつぼつわからなくなってくる。多くの人はだましたものとだまされたものとの区別は、はっきりしていると思っているようであるが、それが実は錯覚らしいのである。たとえば、民間のものは軍や官にだまされたと思っているが、軍や官の中へはいればみな上のほうをさして、上からだまされたというだろう。上のほうへ行けば、さらにもっと上のほうからだまされたというにきまっている。すると、最後にはたった一人か二人の人間が残る勘定になるが、いくら何でも、わずか一人や二人の智慧で一億の人間がだませるわけのものではない。

 すなわち、だましていた人間の数は、一般に考えられているよりもはるかに多かったにちがいないのである。しかもそれは、「だまし」の専門家と「だまされ」の専門家とに画然と分れていたわけではなく、いま、一人の人間がだれかにだまされると、次の瞬間には、もうその男が別のだれかをつかまえてだますというようなことを際限なくくりかえしていたので、つまり日本人全体が夢中になって互にだましたりだまされたりしていたのだろうと思う。

 このことは、戦争中の末端行政の現れ方や、新聞報道の愚劣さや、ラジオのばかばかしさや、さては、町会、隣組、警防団、婦人会といったような民間の組織がいかに熱心にかつ自発的にだます側に協力していたかを思い出してみれば直ぐにわかることである》

伊丹万作「戦争責任者の問題」

 伊丹氏はこうしてまずはジャブをかまします。戦後、「だまされていた」ということで傷をなめ合っていた人たちに対して、「いや、あなたたちもだましていただろう」とくぎを刺します。伊丹氏は、戦時中の独特の「だましあい」の「空気」を醸成していた存在として、末端行政やマスコミや地域のもろもろの組織、小役人たち、お隣さんたちをあげています。戦後に「だまされた」とされていた人たちの多くは、実は「だます側」でもあっただろうというのです。実際、こうした「だましあい」「だまされあい」をしていた、身近な、無数の小さな(「善意」に満ちた!)コミュニティの総和が、昭和の歴史的な「空気」の地盤を提供していたことになると思います。伊丹氏は「だます」「だまされる」と言いますが、では具体的にはどのような事柄について言っているのでしょうか。伊丹氏はたとえば次のような例をあげています。
 

 《たとえば、最も手近な服装の問題にしても、ゲートルを巻かなければ門から一歩もでられないようなこっけいなことにしてしまったのは、政府でも官庁でもなく、むしろ国民自身だったのである。私のような病人は、ついに一度もあの醜い戦闘帽というものを持たずにすんだが、たまに外出するとき、普通のあり合わせの帽子をかぶって出ると、たちまち国賊を見つけたような憎悪の眼を光らせたのは、だれでもない、親愛なる同胞諸君であったことを私は忘れない。もともと、服装は、実用的要求に幾分かの美的要求が結合したものであって、思想的表現ではないのである。しかるに我が同胞諸君は、服装をもって唯一の思想的表現なりと勘違いしたか、そうでなかったら思想をカムフラージュする最も簡易な隠れ蓑としてそれを愛用したのであろう。そしてたまたま服装をその本来の意味に扱っている人間を見ると、彼らは眉を逆立てて憤慨するか、ないしは、眉を逆立てる演技をして見せることによって、自分の立場の保鞏(ほきょう)につとめていたのであろう。

 少なくとも戦争の期間をつうじて、だれが一番直接に、そして連続的に我々を圧迫しつづけたか、苦しめつづけたかということを考えるとき、だれの記憶にも直ぐ蘇ってくるのは、直ぐ近所の小商人の顔であり、隣組長や町会長の顔であり、あるいは郊外の百姓の顔であり、あるいは区役所や郵便局や交通機関や配給機関などの小役人や雇員や労働者であり、あるいは学校の先生であり、といったように、我々が日常生活を営むうえにおいていやでも接触しなければならない、あらゆる身近な人々であったということはいったい何を意味するのであろうか》(同上)

 戦時中は男性が外出する際、ゲートル(西洋風の脚絆〔きゃはん〕)を巻く、戦闘帽をかぶるということが半ば規範化されていており、日常生活では普通のいわゆる「善良な」人びとがその規範を厳しく監視していたことが分かります。こうして、歴史的危機に際しては、合理的ではないある種の急ごしらえ「道徳」が半ば規範化され、そして身近なひと同士でお互いに監視し合うという状況、そうした「空気」が醸成されることが分かります。今回のパンデミックにおいても、マスク着用やソーシャル・ディスタンスのルール厳守などが自治体、マスコミ、医者などによって発信され、実質規範化されていました。そして戦時中と同じく周囲の身近な「善良な」人びと(家族や知人、会社の人、お店の人、病院関係者)によって監視されていました(私は、私が「ワクチンを打たない」と言った際、「この国賊が!」という感じの敵意の顔を見せてきたひとの顔をいまだに忘れない)。


「風」に組みこまれていく急ごしらえ「道徳」

 2022年の秋、とある関東の料理屋さんで起きた出来事ですが、友達と4人でテーブルを囲み話をしていると、店の人から「大きな声で喋らないでください!」(感染予防の意味で)と怒気を含んだ感じで言われたことがあります。これなど、コロナの急ごしらえ「道徳」が店風に組みこまれていた例としてあげることができるでしょう(店の人は「大きな声で喋るとコロナがうつる」という説を採用し規範化していたのだと思います)。また、同じく関東地方のある定食屋ではお客さんが帰るたびに必要以上に消毒液を噴霧するところがあり、横で食事中の者としては心穏やかならぬものがありました。これも急ごしらえ「道徳」の店風への組みこみの一例といえるでしょう。また、医療業界・介護業界に勤めている人にはワクチン接種が実質義務化のような様相を呈していましたが、これは急ごしらえ「道徳」が「業界風」に組みこまれた例といえると思います。このように、歴史的な「空気」は、店風・社風・業界風などに組みこまれて広く大きく拡散していくというのが、その現実的・具体的な拡散過程になります。



私たちの戦争責任

 《いうまでもなく、これは無計画な癲狂(てんきょう)戦争の必然な結果として、国民同士が相互に苦しめ合うことなしには生きて行けない状態に追い込まれてしまったためにほかならぬのである。そして、もしも諸君がこの見解の正しさを承認するならば、同じ戦争の間、ほとんど全部の国民が相互にだまし合わなければ生きて行けなかった事実をも、等しく承認されるにちがいないと思う。

 しかし、それにもかかわらず、諸君は、依然として自分だけは人をだまさなかったと信じているのではないかと思う。

 そこで私は、試みに諸君にきいてみたい。「諸君は戦争中、ただの一度も自分の子にうそをつかなかったか」と。たとえ、はっきりうそを意識しないまでも、戦争中、一度もまちがったことを我子に教えなかったといいきれる親がはたしているだろうか。

 いたいけな子供たちは何もいいはしないが、もしも彼らが批判の眼を持っていたとしたら、彼らから見た世の大人たちは、一人のこらず戦争責任者に見えるにちがいないのである。

 もしも我々が、真に良心的に、かつ厳粛に考えるならば、戦争責任とは、そういうものであろうと思う》(同上。太字は引用者)

 私はワクチンに関しては自分なりに調べて安全性に疑問をもった(具体的な成分が分からない、中長期の治験結果がない、ということが決定打)ので家族には「打つな」と言えましたが、マスクに関してはそれほど調べず着用しないよう熱心な注意喚起はしませんでした。今後、もしかするとマスク着用の弊害が大きく取りあげられ、マスク着用を阻止しなかった大人の責任が云々される時代がくるかもしれないわけで、そうなると私は子どもたちから「うそつき」呼ばわりされる可能性もあるわけです(私たちにうそを流布させたい勢力が仮にいるとすると、彼らは、まだうそとバレていないうそを専門家やメディア、協力者を通じて流布させる手法を当然とるでしょう)。このように、今回のコロナパンデミックにおいても、ほとんどの大人が「戦争責任」者になりうる、という状況だと思います。


「だまされるということ自体がすでに一つの悪である」の意味

 《だまされたということは、不正者による被害を意味するが、しかしだまされたものは正しいとは、古来いかなる辞書にも決して書いてはないのである。だまされたとさえいえば、一切の責任から解放され、無条件で正義派になれるように勘ちがいしている人は、もう一度よく顔を洗い直さなければならぬ。
 しかも、だまされたもの必ずしも正しくないことを指摘するだけにとどまらず、私はさらに進んで、「だまされるということ自体がすでに一つの悪である」ことを主張したいのである。
 だまされるということはもちろん知識の不足からもくるが、半分は信念すなわち意志の薄弱からくるのである。我々は昔から「不明を謝す」という一つの表現を持っている。これは明らかに知能の不足を罪と認める思想にほかならぬ。つまり、だまされるということもまた一つの罪であり、昔から決していばっていいこととは、されていないのである。
 もちろん、純理念としては知の問題は知の問題として終始すべきであって、そこに善悪の観念の交叉する余地はないはずである。しかし、有機的生活体としての人間の行動を純理的に分析することはまず不可能といってよい。すなわち知の問題も人間の行動と結びついた瞬間に意志や感情をコンプレックスした複雑なものと変化する。これが「不明」という知的現象に善悪の批判が介在し得るゆえんである。
 また、もう一つ別の見方から考えると、いくらだますものがいてもだれ一人だまされるものがなかったとしたら今度のような戦争は成り立たなかったにちがいないのである。
 つまりだますものだけでは戦争は起らない。だますものとだまされるものとがそろわなければ戦争は起らないということになると、戦争の責任もまた(たとえ軽重の差はあるにしても)当然両方にあるものと考えるほかはないのである。
 そしてだまされたものの罪は、ただ単にだまされたという事実そのものの中にあるのではなく、あんなにも造作なくだまされるほど批判力を失い、思考力を失い、信念を失い、家畜的な盲従に自己の一切をゆだねるようになってしまっていた国民全体の文化的無気力、無自覚、無反省、無責任などが悪の本体なのである》(同上。太字は引用者)

 このへんが伊丹論文のクライマックスともいえる部分です。「だまされるということ自体がすでに一つの悪である」とは、きわめて挑発的な物言いですが、このことついて規範論の立場から説明してみようと思います。この刺激的な物言いの背景には、「だまされる者がたくさんいたから戦争がおこった」という理解があり、かつ、「だまされる者がたくさんいたのは、だまされた者がだます側に回って人びとをだまし始めたからだ」という理解があります。このことは上記の論文をよく読むと分かると思います。この後半の「だまされる者=だます者」となる論理構造について説明しようと思います。ごく簡単にいうと、私たちはだまされた後、多くの人が、独自にそれと知らずに「大衆思想運動」を実践し、だますことに加担して人びとをあざむいていた、ということです。たとえば戦時中の新聞を読んで「日本は優勢だ」という認識をえた人がいるとします。彼は同じ日にたまたま近所の隣組長からも同じ話を聞いて、その「日本は優勢だ」という話は彼の中では確信に変わり、規範化されたとします。規範論的にいうと、こうしてメディアや人から刷りこまれた認識が対象化されて規範化すると、彼は「もう一人の自分」ともいえる別人格を頭の中に養育し、それ以降、今度はこの「別人格」からの「命令」によって、彼は良かれと思って、それと知らずに、「日本は優勢だ」と他の人をだましにかかるのです(一人の頭の中に二つの人格があるという構造は、弁証法では「対立物の直接的な統一=同一性」といいます)。この繰り返しによる膨大なうその集積が「だます者」と「だまされる者」とで作る「戦争」というものには不可欠な要素となります(今回のコロナパンデミックにおいては、ワクチンに関するうそについて、膨大な「だまし、だまされる」という過程が繰り返されたといえるでしょう)。こうした「善人」たちの「善意」による「うそ拡大の過程的構造」について、伊丹万作という映画監督は敗戦直後にすでに気づいていたものと思われます。私たちは今回のコロナパンデミックでは彼のその気づきを生かすことはできませんでしたが、今後は生かせるようにしなければならないでしょう。



(続く)


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