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楽しくて怖い!衝撃の奈良リトリート

リトリートが終わり数日経って、
言葉にできない体験って
本当にあるのだなあ…と思っている。


プライバシーや秘匿情報?があるから、表現しにくいのはもちろんだけど、4日間が濃密すぎて、整理できないままに、次から次と事象が起こり、数日たった今も、いろんなことが繋がる場面があり、振り回され続けていて、言語化が追い付かないから、まとめると”言葉にできない”になるのだけど。

それでも、今感じていることを、
形にしておきたいので、書いてみます。


この記事で、リトリートに行くことが楽しみだけど怖い、そんなことを書きました。


今回は、プレミーティングの課題と終えて感じることを書いていきたい。

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プレミーティングでリトリートに行くまでに考えてみるテーマをいただくのですが、私は“罪悪感”でした。
そこから、わたしは罪悪感を自分の着火剤として利用する癖があるのではないか、との仮説にたどり着きました。

家族の誰かが悲しんでいる→わたしのせい
会社でトラブルが起こった→わたしのせい
社会問題のニュース→わたしのせい
⇒自分自身がいただいた生をフルに活かさなければならないのに、何をのんびりダラダラしているのか!と常に自分を駆り立てる存在がいるなあと思うようになりました。

もちろん、理性的な部分では、自分の出来ることには限りがあると思っているし、自分のせいだなんて逆に傲慢であると思っている部分(思考での制御)の方が大きいのですが、
でも、どこかに、自分が求める幸せや平穏と離れた事象を見つけると、自分を駆り立てる自分が意識の中に確かにあることを認め、リトリートに臨みました。


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今回のリトリートの印象は大きくふたつあって、
とっても楽しくて・とっても怖い体験だったということです。

色んな人と実際会って、話すことができて、初めての体験ができて、とても楽しかった(interesting)。
そして、色んな人と実際会って、話して、初めての体験があり、とても怖かった。

わたしの中には、同じひとつの事柄を心底楽しいと思う自分と、心底怖かったと思う自分が、同時に存在するなと気づきました。

それは帰り道のこと、数日間の出来事を振り返っていたら、自分が、「怖い」と何回も口に出していたこと、やたらと癒しを求めていたこと、プログラム中も「怖い」と思っていたこと、を思い出してきました。

何がそんなに怖かったかを頑張って掘り下げると、人が苦しそうなところ、人が動揺しているところを見るのが怖かったし、自分の想定の範囲外のことを受け入れるのが怖かったし、次に何が起こるかわからないことも怖かった。怖いことばっかりだった。

でも、同時に、想定外のことや人の感情のふり幅を真横で見れたことはとても楽しいことだった。
だから、リトリートは、私にとって、楽しいことと怖いことで溢れていました。

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プレミーティングで何もかも自分のせいにしている自分に気づけなかったら、リトリート中も誰かの何かを勝手に自分のせいにしていたかもしれない。それに事前に気づけてよかったなと思う。

また、今までの自分だったら、リトリートはただ単に「すごく楽しくて自分のためになった素敵な体験」にしてしまっていたかもしれない。でも、ちゃんとリトリートのすべてに怯えて怖かった自分が現在進行形でいることに気づけたことは、とっても大きな変化なのだと思う。

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今回のリトリートのはじめに、それぞれ神様カードをもらった。
わたしは、「弥勒菩薩」のカードで、こう書いてあった。
地球を味わい尽くす、楽しみ尽くすことを目的とした冒険の魂です。あっちにいったりこっちにいったり、うろうろと、“寄り道と脇道”を意識して、“好奇心を満たし”ていきましょう。

“味わい尽くす”ためには、キラキラや新しいもの知らないものにフラフラ寄っていく大胆?な自分と、それに近寄ったが故に衝撃!を受ける繊細さもきっと必要なのだろうなと、いまはそんな風に受け取っている。

衝撃の余波がすごくて、きっと色んな点と点が繋がる事象は毎日起こるだろうから、印象が変わったら、またこちらに書いていければいいなと思う。



運営のみなさま、
現地で関わり助けてくださったみなさま、
見守り隊のみなさま、
本当にありがとうございました!

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