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黄道十二宮三周説 第4章 2周目後半の解説(山羊座まで)

 天秤座から山羊座までは、2周目でスポットライトが当たると見なすサインだ。つまりは地上の社会的活動に参加するというパートを代表するサインということだ。
 天秤座(2-7)については、すでに交流分析のところで説明したように、自分で自分のコントロールをできるようになった人物だけが、この舞台に登場することができると見なす。自分で自分のコントロールをすることができない、つまり私の言い方では、1周目のサインをコンプリートしていない者は、それをひた隠し、不足するエネルギーを奪うためにこの社交の舞台に立とうとする「ゲームを演じる者」であり、天秤座(2-7p)というナンバリングになる。
 分かっているとは思うが、本来の天秤座(2-7)に立つことは、完璧な人間にならなくてはならない、ということではない。お前がもしそのように感じてしまうなら、私の伝えようとしていることを正確に捉えていないことになる。ドライバーに駆り立てられるように生きることは、ここで求められることとは逆なのだ。このことを考える上では、私が蠍座の禁止令に当てはめた「頼るな」というものが参考になるだろう。自分に何か欠けるということは当たり前のことであり、その補強を、誰かとの関係で補うことを悪だと見なしてはいけないよ。重要なのは、自分には苦手なことがあり、できないことがある。それを自覚しているということと、それをもとに、助けを求めることができるということなのだから。
 自分がどのように生きているのか、どのようなパターンに陥りがちなのか、どのような補強や援助を必要としているのか、それを自覚していることが求められているのだ。出生図において、これは7ハウスや8ハウスに入るサインを、自分のそのような傾向として持っているかもしれないと考えてみるのもよいだろうな。
 天秤座(2-7)のキーワードは、「社交の広がりと多様性の理解」である。それぞれがコンパクトにまとめた個というものを用いて、出会い、交流を楽しむのだ。私のまとめ方、あなたのまとめ方、様々な個性がそこでぶつかり合う。1周目と違い、これは保護観察なしの社交性だ。一人の大人として、果てしない世界に飛び出たような気持ちになるだろう。そこにはどのような出会いが待っているのだろうか?というワクワクした気持ちが昂るだろう。
 コンパクトにまとめる作業が終わっていないなら、ゲームを演じる者になるのだが、それは同時に、社交性への恐怖心となって表れるだろう。金星を支配星としているように、天秤座は本来、華やかであるはずの舞台なのだが。
 天秤座(2-7)に達している者から見れば、前に立っている人物が、ゲームを演じる者なのか、あるいは自分と同じ舞台に立っている者なのかは、すぐに分かってしまうものだ。振動の高いものは、低いものの状態をありありと把握することができるから。同じ舞台に立つ者、あるいは自分からは計り知れない高みにいる者に出会ったとき、その者はまるで宝物を見つけたかのような気持ちになる。そのような出会いはめったに得られるものではないからだ。しかし一方で、通常の出会いの中で出会う人たちにも、いろいろな個性があり、何もかもが悪いわけではないことも弁えている。できる限り、その人の振動の高い部分を見ようとすることで、その交流を満たそうとする。そうしないことには、相手のゲームに引きずり込まれるか、相手のゲームを強化するために協力してしまうことにつながるからである。しかし中にはどうやっても不可能な対象もあるのだから、自分には対処できない人物なら、関係を絶ったとしても全く問題ではない。この部分においても、物事はオートマチックではなく、一つ一つ、手作り的に、関係の取り方を工夫していくことになるのだ。(しかしやがて、それらはオートマチックに行うようになる。この辺りのことは、3周目で語る予定の、「願望実現」に関与してくるテーマとなるだろう。)
 蠍座(2-8)のキーワードは、「結束力と大きな力」である。1周目では、保護観察のもとで、力を合わせて、個人では実現できないことを集団で実現することの喜びを知った。それは感動として経験するのであるが、少し自分をはみ出すという経験だった。2周目では、それを保護観察なしに行う。自分の選択による集団化とそこから得られる感動である。1周目とは違い、その集団も力も大きくなる分、自分からのはみ出し経験も大きくなる。個人から見て圧倒的な力に飲み込まれる経験だ。それは前にも説明したが、今とは全く違う自分に変容する準備にもなる。蠍座(2-8)は、地上において、できる限り大きなことをやってみたいという気持ちに応えられるパートでもある。
 蠍座(2-8p)は、振動の低い集団化という出方もあれば、所属や協力しあうことへの拒否感という出方もあるだろう。振動の低い集団化では、蟹座の時と同様に、集団化したものの、その内部で奪い合いが生じたり、権力の落差が発生したりして、全体としても破壊的な目標に向かって活動するようになってしまう。活力ではなく、どんよりとした空気が、その集団を覆うのが感じられるだろう。あるいは依存しあうことが最大の目標になってしまい、何も生み出さず、所属しているそれぞれが益々無能になったり、忘却したりしてしまうための圧倒的なマイナスの力になってしまうこともある。
 蠍座は力が集結する分、良い影響にしても、悪い影響にしても、その働きが極めて大きいので、自分が所属しようとする、あるいは所属している集団が、自分の成長にとってマイナスだと判断されるなら、すぐに飛び出すことを考えなくては、取り返しのつかないことになってしまうよ。
 ここで一つ、たまには私の思い出話を入れてみよう。長い遺書だから、このようなパートがあっても構わんだろう?
 宗教団体への所属も、もちろんこの2周目の蠍座の管轄である。私は若かったころ、たいへん病弱であった上に、両親もそれほど私に関心があったわけではなかったから、私はこれから大人になって生きていくうえで、自分の人生についてよく不安に思ったものだ。二十歳のころだったか、さらに私の健康状態は悪化していた。そのとき、同い年のある男が、私にある宗教団体への加入を勧めてきたのだ。当時の私は、たいへん気が弱く、ほぼ言われるがままに、彼の勧めに応じてしまった。内心、私はとても嫌だったのだが、その男は全くそのことには気づかなかった。信仰のためには、相手の気持ちを伺ってはいけないというわけだ。その宗教団体には、ポピュラーな儀式をする慣習があったのだが、私にもそれは義務化され、気弱な私は、誠実にもそれを繰り返していた。病弱というのは、人生のかじ取りを、自分から奪いがちだな。それほどに、私は弱っていたのだ。
 しかしきっとお前も驚くであろうが、なんと、私の病気が改善していったのだよ。私は、これには本当に参ってしまった。その男が言っていることや、その教義の内容は、私から見れば矛盾ばかりであり、それに従うことは、何か私の中で重要なものが失われるような気がしていたのであるが、事実として、完治とは言わないまでも、状況が良くなっていったのだ。
 そして「そのようなことは、この信仰の中ではよくある事だ」と、その男は言い、その証言をするテープなども聞かされた。もちろん、すべての人物にそのような奇跡が起こった訳ではないようではあったが、それは彼らからしてみれば、「信心が足りないから」、ということであった。私は、生まれてこのかた、あんなに悩んだことはなかったよ。面白いものだろう?病気が改善されていったのにも関わらず、私は悩み続けていたのだ。身体の状況は良くなったものの、重大な何かが、私から損なわれているような感覚があったからだ。一言で言うと、それは「自由」ということだった。私はその集団に帰依すれば、病気は完治するかもしれない。しかし私から見てどう見ても理解しがたい教義に身を委ね、自由を放棄しなくてはいけないという訳だ。そのうち、私は、「私の理解が浅いだけであって、その教義こそ正しく、他は間違っているのだろうか?」と悩み始めた。「いや、まさかそんなはずはないだろう?」その繰り返しだ。
 結末に興味があるだろう?結果、私が優先したのは、私の理性と自由のほうだった。病気が改善するよりも、そちらを選んだのだ。一方で、激しい悩みと、その男への申し訳なさのためか、その拒否を表明した日には、胸に激痛が走った。悩みすぎて胸が痛くなるというのは本当にあるのだね。後日分かったのだが、胸骨にヒビが入っていた。私は当時、それは悩みすぎてヒビが入ったと思うが、どうもそれだけではなかったと思う。
 お前はこの私の経験を、どのように思うかね?お前なら、どのように整理するだろう?私は、文字通り自分を癒し救ってくれる教えに背いたのだろうか?それとも自由や理性のほうが重要で、それは当然のことだったのだろうか?
 その答えが見つかったのは、それから数年後だった。数年間、私はその葛藤を心の中に納めていた。最初のころは相当に悩んでいたが、そのうち、このような極端の間で揺れながらでも、それなりに生きていけることが判明した。そこにこそ真実があるような気持ちもしたものだよ。
 その答えを教えてくれたのは、私が呼吸法を教わった師だった。その師との出会いについては、ここではもう詳しく語らないが、ある偶然から、呼吸法により氣のエネルギーをコントロールするその師と出会い、個人的に短期間のレッスンを受けたのだ。私は、相変わらず病弱だったが、それによって、私の体調が劇的に改善していった。私には奇跡のようだったよ。その師と関わったのは短期間だったが、たくさんのことを学んだ。
 師はこのように語った。
「教祖というものは、圧倒的な力を持っている。彼らが奇跡を起こしたのは間違いない。そして教祖がいなくなった後、その力を継続するために人は集団化する。集団化しなくては維持できないほどの力だから。そこには間違いなく氣のエネルギーがある。よって、そこに所属するだけでも、その集団のエネルギーを吸収し、急激にチャージし、事態が好転することがある。それは「世界で唯一の真実を語る教え」でなく、どのような集団においても、普通に起こりうることなのだ」
 ちなみに私は、上記のような私の出来事と悩みの事情を一切語ってはいない。師は個人的にその宗教団体には関わりたくないと言っていたこともあり、私には肩の荷が下りた日だったよ。今思うと、師の言ったことは当たり前のことなのだが、その時の私には素晴らしい瞬間だった。
 私は今では、当時、私を悩ませた宗教団体について、冷静な目で見ることができる。それは「悪いこと」ではないし、「圧倒的に正しいこと」でもない。唯一、私を誘ったその男の間違いを指摘するとすれば、「自分たちだけが正しく、他は間違っている」と言ったことだ。
 宗教団体には「大きな力」があるよ。しかし自分の選択で選んだものでなくては、禍根を残すことになる。強制したもの、強制されたものには、必ず不足するパーツが騒ぎ出す。強制する心、強制される心の裏には、自信のなさがあり、自信のなさの向こう側には、円の中で無自覚に不足した部分があり、それを他者から無自覚に補おうとする働きが発生するということだ。
 宗教にはいろいろなスタンスや目的があるが、今、テーマにしているのは蠍座(2-8)であるから、「力」という表現をしたのだ。宗教の最も大きな目的は、2周目の終わりか3周目にあるが、それは宗教という形を取らなくてもよい。「本当のことを思い出す」ということだ。
 私が胸に激痛が走ったのは、一度つながったその団体へのエネルギーのパイプを、無理やり引きはがしたためだと思う。何度も聞かされたのだが、「脱退した後に気が狂う人がいる」、というのも、あながち嘘ではないのかもしれない。だからと言って、彼らが世界で唯一正しい団体という訳ではないのだがね。
 宗教団体を例として挙げたが、もちろんここで言う集団は、どんなものだって構わない。会社でも良い。結婚生活もそうだな。現代で言うと、オンラインサロンなんかもこのカテゴリーに入れてよいだろう。要は、個人では実現できない大きなことを力を合わせてする喜びと、その力強さを体験するということだ。
 射手座(2-9)のキーワードは、「学問と視野の広がり」としておこう。1周目では、切磋琢磨し、自分が他者との関係性の中で成長していくことができる喜びを体験することがテーマであった。具体的には、お稽古事やスポーツなどが対応し、個人の能力を伸ばすことがテーマである。2周目では、自分が生きている社会や地上世界について、より理解を広げ、深め、見聞を拡張することにある。個の形成はすでに終わっているのだから、ベクトルの方向が、外に向かっているという違いがあろう。
 この学問や研究を行うときには、何かの役に立つとか、社会で実用化されるためとか、そのようなスタンスで行われるのではない。純粋に、精神が高揚し、何かを知り追求することそのものが刺激的で楽しいのだ。2周目の獅子座でもそうであったが、何かの役に立つためにそれを行うなら、それは火のエレメントの性質上、偽物と言わざるを得ないのだ。しかし、現実の社会では、このあたりの汚染は相当にひどく、現在のその有様は、目も当てられないほどだ。既存の社会(山羊座2-10p)が要請する学問のみが圧倒的多数であり、酷いときには研究結果さえも、腐敗した山羊座の要請に合わせるように曲解したり、時には露骨なウソとなって表れたりするのだ。そしてその偽物の情報を、腐敗した社会の中で利益を独占しようとする者たちのために乱用され、本当のことは知らされず、本当のことを言う者を社会的に抹殺したりする。そこにはもはや学問と研究の喜びはなく、保身のために妥協した、退屈で欺瞞に満ちた研究しか生き残っていかない。よって、ここでもやはり、本物の研究に出会った時には、目を見開かされるように、刺激的で、非常に大きな喜びを感じることになる。宝物を見つけたような高揚感だ。
誤った学問について言えば、例えば、ヒートアイランド現象は間違いないが、CO2による地球温暖化という現象は断定するにはまだ時期尚早の感があり、その一方で全体的には氷河期に向かっていることは無視され続けている。一時期盛大に話題になったダイオキシンも、人間にはほとんど毒性がないことが分かっている。ペットボトルの再生には、普通に燃やしていた時以上の石油を必要とし、細胞のスッタプ現象は証明されつつある。しかしその誤った学問によって法が整備され、誤りだと分かった後にも、利権の問題で、法を訂正することもなく、まったく意味がないどころか、制約が増えたために生きづらい社会へのベクトルが働いてしまう。このような問題は山積している。
 純粋な学問の背後には、1周目の切磋琢磨があるのであり、研究には、成功も失敗もあり、自分の研究が真実に至ることは非常に喜びに満ちたことだとは思うが、常に試行錯誤があり、行き詰ったり、誤解したりしてしまうことが日常茶飯事である事を弁えているのが本来のものだ。それは自分にもそうであるが、ともに研究を進めている者にとっても、当然同じことであり、全体として真実を明らかにしていくことが重要なのである。しかし、射手座(2-9p)には、それを許容する度量が育っておらず、誰かの間違いを叩き、自分の失敗を隠そうとしてしまう。射手座の好戦的な特徴が、悪く出てしまうという訳だ。
 射手座が「外国」とするのは具体的な表現の仕方で、蠍座において所属していた時以上の広がりの関係性の中に身を置いてみる、ということが、より正確な説明である。蠍座では、大きくなった自分を体験するために、特定の関係性の中に閉鎖する必要があった。しかし、人はずっと同じ関係性の中に居続けることはできず、それは腐敗や惰性をもたらすのであるから、もっと広い関係性を求めつつ、それは天秤座のように、一対一の個のバラエティーを楽しむだけではなく、充足感と広がりを、同時に満たすものでなくてはならない。そこで、できる限り遠くに行ってみたいとか、外国に行ってみたいとか、いつもの環境から飛び出す方向にベクトルが働くことになるわけである。
火の性質なのだから当たり前なのであるが、射手座では、ワクワクする感じや、精神の高揚を体験するのだ。獅子座同様に、この射手座の学問や研究についても、多くの人がその喜びを、自分のものではないと感じ、他の誰かがするものだと感じているように私には見える。難しいことはやりたくない、という訳だ。しかし難しいから射手座をするのではなく、精神が高揚するからするのであって、準備が整っている者には、それを努力とは感じられないことだろう。1周目を満たせず、労働戦士として生きざるを得ない人から見れば、学問は自分に一生関係のないものに思えるのだろうな。もっと誰もが、自然に学問する状況が良いとは思うのだが、これもいつものことで、忘却惑星ではなかなかそうはいかないというわけなのだ。
射手座(2-9)が進めば進むほど、自分が今いる環境、社会、惑星について、より深い理解をし、自分の視野やフィールドが広がり、「感じ取れる生存環境」とでも言うべきものが次第に大きくなっていき、皆が同じ地上で生きているというのに、その者にとってはより広く深い世界の中で生きている手ごたえを感じることができるのだ。安い言い方になるが、世界が光ってみえるという感じだな。
ここでの研究は、私は精神世界についてはカテゴリーに入れないでおこうと思う。今の段階では、地上世界において、肉体的に個別化された個人たちによって、あるいはその集団によって行われる学問であるから、科学的で、目に見える証拠があり、データとできる限りの再現性を求める学問という前提が落ち着く。精神世界への取り組み始めは、地上世界から距離を取り始める段階から始まると考えれば、2周目の水瓶座、特に魚座のカテゴリーとなる。この対立は、データや論理で判断するべきところを、直感で理解しようとするようなものだ。しかし、射手座と魚座の副支配星が木星であることから見えるように、この2つのサインのスクエアの葛藤は、他のスクエアよりまろやかにに見える。
言い忘れていたが、射手座(2-9p)のキーワードは、「嘘の学問と広がらない視野」とでもしておこうか。他に良い言い回しがあるかもしれないがね。
山羊座(2-10)のキーワードは、「ローカル社会に参加し、動かすこと」である。射手座からの流れで言えば、研究成果の中で、利用できるものを抽出し、自分たちのアソシエーションをよりよく形成し動かしていくことになる。それは会社であったり、国家であったりするが、その社会で従うべき法や規範を作り、その中ではみ出すことなく、守り守られながら生きることができるような働きのことだ。山羊座の支配星が土星であることからも分かるように、それは柔らかいものを守るための、骨と皮であり、それ自体のためにあるのではない。山羊座は社会を維持するための基盤であるから、大きな力を持つことになり、人々の生活の苦楽に大きな影響を及ぼすことになる。2周目を支配していると見なすのはこのパートであり、その理由は、ほとんどの人間が、自分の生きている社会の示す規範や前提に従って生きているからに他ならない。生きているローカル社会の壁であり、それより外は別世界だ。1周目の乙女座と同様に、2周目の「あがり」の状況だ。
ここでは山羊座が示す規範やルールについて、それに無自覚に受け入れるのではなく、なぜそうなのかを理解しておくことが重要である。自覚している者が(2-10)であり、無自覚な者が(2-10p)ということだ。
無自覚な者は、暗黙のルールや法律の根拠を考えない。社会(国家や会社など)が示すそれらのものが、無前提に正しいとし、それに従わないことは常に間違っていると判断する。
あるいは、アソシエーションそれ自体の維持運営に価値があるとし、その目的や内部の人々の幸福を顧みない。そこに住んでいる人々の幸福や安心(ざっくりと蟹座と言っても良いだろうが)のためのシールドであることを弁えない。そしてそれを弁えない以上、その所属員たちに、「お前たちは、骨であり、皮である」とし、社会の歯車で居続けることを強要するようになる。意味を考えない社会だ。
あるいは社会に参加し、動かすことは、自分のやるべきことではないという前提で生きている。それは自分の手には負えない仕事であり、その者にとっては誰かが決めることなのだ。
双子座のところでも説明したが、現代の日本の政府や官僚の方針は、本質面から見て、完全に矛盾に陥っている。中身ではなく、骨と皮を守る政策を続ける結果、骨と皮が弱くなっているとでも言うべきだな。結局、骨と皮を強くするのは、中身を守るかどうかで決まってくるのだから。国や会社が自分たちを守ってくれる機能を失っているのだとしたら、国民や社員が、そこに従う理由などありはしない。不正や搾取が加速していくことになる。
会社や国家、あるいはその他の社会が、そこに住む人々のためのシールドだということを理解するなら、それぞれ自分たちのやるべきことを真剣に考え、たくさんの試行錯誤をしながら、前向きに取り組むはずだ。
国を代表とする「社会」に参加し、動かすときに、それぞれが得意な場所に行き、それぞれの務めを果たすことになるが、人にとってそれが究極的な目的だと考える必要もないぞ。そのように思われがちだがね。山羊座は生活そのものではなく、生活を守るシールドなのだ。そして職業だけが、そのシールドという訳でもない。主婦だって、シールドになりうる。主婦の力によって、家庭は支えられ、他の家族の外での労働を支えているのだから。現代では、女性も社会進出すべきとか、男性優位すぎるとか言うけれども、主婦を社会的な文脈でとらえることを怠っているだけだ。これは女性が主婦をすべきと言っているのではなく、家庭を守り、運営することも、立派な山羊座の活動だということを言いたいのだ。別に男性がやったってかまわない。
それぞれの2周目の山羊座をどのようなスタイルにするかは、ざっくりと言えば出生図のMCや10ハウスを参考にすることになる。それはどのようなやり方で社会に参加しているかという自覚が重要で、既存の職業に当てはめなくてはならないという訳でもない。特に、これから説明する水瓶座や魚座の中には、現代では「それはキャリアとかステイタスとは言えない」というものも含まれてくることになる。現行の社会の通例しか認めない者ほど、その傾向は強くなるだろう。「NPOは職業ではないだろう」みたいな感じにな。水瓶座や魚座は、山羊座的社会から出ていくことが目標とされるからだ。
例えば「浮浪者は、もしかしたら山羊座の円滑な運営に必要なステイタスなのかもしれないよ」という見方もできる。一方で、浮浪者のほうも、自分と社会との関係を自覚してこそ、ステイタスある浮浪者ということになる。忘却の進んだ山羊座ほど、既存の枠組みに当てはまる職業のみを、社会的立場だと認めることだろう。成熟した社会ほど、懐が大きくなり、そこから何か利益を得られることを理解することができる。
2周目の山羊座においては、ローカル社会の中で、自分がどのような立場に立っているのかを、把握していることが重要なのだ。「自分がどこにいるか分からない」あるいは「恐ろしく狭い社会を、社会のすべてと思っている」という状況も、山羊座(2-10p)の状況である。


あとがき
アップが遅くなったのは、予想外の仕事が入ってきたり、前に書き留めていたほぼ完成していた下書きのデータが消えてしまったりしたためです。フラッシュメモリーのデータが飛ぶと、かなり焦りますね。直に保存するのは危険だそうです。結果、前に書いたのとは全然違う内容になったと思います。そして前に何を書いたかは、すっかり忘れてしまった(笑)蠍座の老人の体験話は、私の実体験を簡略化して書きました。

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