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黄道十二宮三周説 第7章 最後の助言

 3周説は、自分がどのあたりにいるのかを理解しつつ、他者がどのあたりにいるのかを見定めるのに役立つだろう。他者がどのあたりにいるのかを見定める手続きは、一見、不要にも思えるが、とても役に立つ方法だ。
まず、他者を的確に把握するためには、自分の癖に気づいていなくてはならない。例えば、ある男性がいて、ある女性に関わろうとした時に、その女性を出生図の金星と見なして関わろうとする。女性とは、最初のころ彼にとって、金星の反映なのだ。それは、実態のその女性とは異なる。自分の金星の特徴を理解し、全体的な文脈の中で自分の金星を把握できた時、初めて、目の前のその女性の実態をとらえることができるようになる。フィルターなしに、相手を見ることができるようになったのだ。それは父親や母親のイメージ、あるいは働き方のイメージ、お金のイメージ、学習のイメージあらゆることに通用することができる。まずはそのように、他者や外の事象に反映させている自分の癖や思い込みを一つ一つ発覚させることだ。対象と自分のフィルターを引きはがすのだ。
次に、3周説に従って、自分が実現できていないテーマを、できるだけ実現していく。12サインのマスターをしていく。円を描くように生きるのだ。
次に、自覚的に、他者を3周説の12サインにマッピングしていく。12サインについて、感覚的には把握し、それぞれの価値観を理解しているものの、自分ではどうしても実現できないことがたくさんあるはずだ。それをある意味、肩代わりしてくれている人物を見つけるということにもなる。それは、その人物と親密にならなくてはならないということではない。その人物を理解し、いわば愛することで、我がものにしてしまうのだ。一方的な愛だがな。ピアノが弾けない者が、自分の理想的なピアニストを愛するようなものだ。それはその人物を愛しているというよりも、そのピアニストを通して成就されている何かを愛するという感覚だ。何しろ、サインに当てはめる訳だからな。(ちなみにゲーテは絵の描き方を学んだが、それを我がものにはできなかったと語っている。しかし優れた画家の描く線の違い、その良さを判断できるようになったとも語っている)このことは、自覚的に、円を描くためのマッピングの対象にしているという点で、投影や依存とは異なる。
癖を引きはがし、円を完成させ、もう一度自覚的に張り付ける、という流れだな。この相手に12サインのみなし作業をすることで、自分がさらに成長するための台座を作ることができる。自分が見て、理解している対象は、円を完成させた自分の心の反映の1つであり、自分がすでに獲得しているものをアウトプットしたものとみなすことができ、いわば過去の自分の姿を外に映し出しているという位置づけになるのだ。自分の中に成就しているものを、相手を通して、外側に見ている状態ということだ。地球とはどういう場所かを精神的に理解しており、その表れを、実際的に目で確認している状態とも言える。
理解するとは、常に、理解されるものの一段上にいることだ。地球生活から卒業するためには、まず地球生活を理解しなくてはならない。繰り返すが、依存や投影は、一段上ではなく、同じ舞台で、無自覚に行われる。
学んだことは、教えることで完成するというのも、このことと同じだ。自分が達成したものを、外側に伝達し、他者がそれを理解することによって、さらなる成長のための自分の台座を作ることができる。学んだ相手は、過去の自分の写し絵なのだ。
このように考えると、学んだことや思い出した真実を、常にアウトプットしていく必要があることが分かるだろう。このアウトプットにより、様々なテーマの獲得が成就されるということにより、隔離された地球と宇宙とをつなぎとめる細いパイプが維持されるのだ。上にいる者たちと下にいる者たちのつながりだ。このつながりが失われたとき、地球上の社会は干からび、崩壊することだろう。
この時に、例えば最高位にいる者たちの教えをそのまま底辺にいる者たちに伝えることは、意味がないどころか、危険をはらんだ行為になる。学びには、それにふさわしい時期がある。本を読むにも、良いタイミングがある。幼稚園児にカントを読み聞かせることには意味がないように。

ところで、私は占星術の鑑定も時々行ってきたが、占星術を始めとした様々な占いや、不可視の世界やエネルギーを扱う分野の面白さにはまってしまい、すべてをそれで説明しようとしたり、問題を解決しようとしたりする客が時々いた。
例えばお金が稼げないという悩みがあったとして、確かに、ホロスコープを見れば、その人が稼ぎにくい傾向を見つけることができるだろう。しかし、お金儲けの方法について、適切に教えてくれるのは、うまくお金を稼いでいる者たちであって、占い師ではない。
他の例で言えば、全然結婚できないという悩みがあったとして、同じようにホロスコープを見れば、その人が結婚しにくい傾向を見つけることができるだろう。しかし、結婚するために役立つ情報を与えてくれるのは、うまく男女関係を作れる人であったり、人間関係の取り方がうまい人だったりするわけで、占い師がそのような能力に、常に長けているわけではない。
もちろん、占星術から見た助言はすることができるだろう。自分の傾向を知り、星廻りを知り、相手の傾向を知り、チームを組むべき相手は誰かを調べることができる。しかし、悩みそのものの対応の方法は、教えることができない。それは占星術の門外のことなのだ。
思い出すに、「暴力をふるう夫と別れたのに、別れた後にも家に入り浸り、どうにもならないがどうしたらいいか?」などという相談があったりしたが、私は相談先が違うのではないか、と言わざるを得なかったよ。それはおそらく法律的な問題で、法律事務所に相談するべきことだろう。私は占い師としては正直で、分からないことは分からないというタイプだったからね。
全てをオカルティックに解決しようという試みは、地上的な問題に関しては、あまりうまくいかないだろうな。もしお金がないなら、占星術を学ぶより、効率的なお金儲けの仕方を勉強したほうが手っ取り早いということだ。何も難しいことではない。
若いうちから不可視の世界について取り組むことは、人生を先行して進めているということであり、欠点を補ってくれるという効能は否定できないものの、それは同時に、自分の地上的な活動を支えているパーツとフローがあることを無視してしまいがちになることも、注意しておく必要がある。地上生活を楽しむためには、地上的な知識や技や関係性が必要ということだ。不可視の世界に取り組むことは、そこから距離を取っていくというベクトルのものであり、地上生活のために直接利用するというのは、してはいけないわけではないが、本末転倒のやり方だということだ。筋力を鍛える必要があるなら、筋トレしなくてはならない。受験に合格したければ、勉強しなくてはならない。いくら占っても、それらを得ることはできない。シンクロニシティーの連鎖が夢を実現させる可能性を高めるかもしれないが、身に着けておくべきものを身に着ける取り組みを結果としてやらないのならば、何も成就することはできない。良い師匠に出会っても、訓練しなくては何も身につかない。

人生は忘却から始まる。忘却から始まり、忘却に終わる者と、忘却から始まり、思い出して終わる者がいる。人生の本来の成長は、単に一生を終えることではなく、思い出す過程である。思い出さずに一生を終える人生というのは、地球という遊園地が存続するためのスタッフとして生きるような人生だ。時々、遊園地で遊び、楽しむこともできるが、基本は地球社会を維持するための駒のような人生と言うことになる。地球に次から次へと魂がやって来られるように、祖先と子孫をつなぐような役割だ。
思い出していく人生というのは、地球を遊園地として楽しむ人生だ。遊園地は、ずっと住み続ける場所ではない。時々、やってくるから刺激的で楽しいのであり、遊び終わったらお家に帰らなくてはならない。
私がここで語ってきたことは、遊び終わったら、お家に帰ろうという考え方だ。それをゾディアックの流れではなく、より端的に、その過程を説明するとこうなる。

0 低い振動に埋もれ、状況を認識できず、地球社会のパーツのように生きる段階
1 振動が高まり、状況をある程度認識し、パーツを操作しようとする段階
2 パーツとして生きる者と操作する者の両者が混在しているという前提に気づく段階
3 振動を上げることは全体的に引き上げることだと気づき、同時に個を手放し始める段階
4 地球という低振動の環境を理解する段階
5 振動を高め、個を手放すと同時に、低振動を切り離す段階
6 地球には関与しなくなる段階

 あまり露骨に言うと角が立つのだが、まあ、これは私からお前への遺言であるし、別に構いはしない。ほとんどの人間がレベル0の状況にいて、自分で何も決められず、ほとんどの時間を反応で過ごしている。目が覚めるような情報を仕入れることを拒み、分析せず、社会的に注入される情報のみによって、すべてを決定しようとするような生き方だ。大切なのは、常識であり、暗黙の了解であり、既存のルールであり、ありがちな生き方を送るということであり、「通常」から外れることを恐れる生き方だ。ここがスタートになる。標準人間と名付けよう。
 ここで上に列挙していないものも述べるが、人生を送る中で、さらに転落する場合もある。標準人間以下だ。しかしそれを「悪」だとか「情けない」などと決めつけてはいけない。もちろん、標準人間から見れば、そのように判断されるだろう。生き残るために、常識や暗黙のルール、法律などを全く守らないという生き方だ。生存のために、奪い合いながら生きる。標準人間は、共感をベースに生きるが、この段階は、共感ではなく、孤独に生き残ろうとしている。人間以前、あるいはレベル‐1と名付けよう。まあ、これは生まれたての赤ん坊から始まって、蟹座(1-4)にたどり着くまでの状態とも言えるのだから、‐1というのもどうかな、とも思える。子育てをする親が、子どもが初めて空気を読んだり、気持ちを汲み取ってくれたりしたとき、「やっと人間らしくなったな」とか、「一人前になってきたな」などと感じるものだろう。そういう見方を標準とするなら、まあ、‐1でもいいだろうな。
 レベル1とレベル‐1は、一見似ている。標準人間から見れば、違いが分からない場合もあるかもしれない。レベル1に生きる者は、常識や暗黙のルールなどに縛られず、自由に判断し、物事を理解し、決定する。反応ではなく、創造的に生きることに喜びを感じる。奇跡的な一手を思いついたり、偶然の展開で物事がうまくいったりするようなことが増えてくる。シンクロニシティーの波に乗ることを知る。「私は材料ではない。私は材料を操作し、自分の感覚で物事を進める」、そのような状態だ。常識に合わせないという点、共感を求めないという点で、‐1に似ているが、‐1は反応で生きている。生理学的反応だ。
 レベル2になると、自分の自己決定的生き方も落ち着き、周りを冷静に観察し始める。周りには、自分のように自己決定で生きている人間が非常に少ないことに気づく。だからと言って、自己決定的生き方を、周りに促そうとしても、ほとんどなんともできないということに驚かされるのだ。しかし一部には、そのような生き方にたどり着く者もいて、その出会いは貴重なものとなる。全員がレベル1に達することはできない現実を受け入れることになる。
 レベル3になると、さらに振動が上がり、そのことによって、自分個人のみで振動が上がると言うことはなくなり、関わる者や環境などがからみ、全体的に高まっていくという事実を認めるようになる。それは同時に、個を手放す準備になる。振動が高まれば高まるほどに、すべてのものがその振動による創造のパーツのように扱われ、振動の低いものも、その流れに組み込まれ、例えていうなら適材適所のような有様が自動的に展開されることを経験する。シンクロニシティーに乗るのではなく、シンクロニシティーを生み出す存在形態となる。
 レベル4は、地球そのものが、低振動であり続ける特殊な舞台である事を理解する状態だ。どんなに振動を高めても、地球の性質上、パラダイスは訪れない。パラダイスに向かうためには、地球から離れることが必要であることを理解する。
 レベル5は、地球から脱出することを試みる段階だ。地上にはもう楽しみがない。さらに高い振動の世界を味わうためには、地球から徐々に離脱していかなくてはならない。それは肉体を脱ぎ捨てていくということでもある。レベル4の段階において、物質の世界にいる以上、物理法則に依存して生きることになり、肉体を背負っている以上、感覚の世界に埋もれ、肉体的な欲望の中で生きなくてはならないことを理解している。物質とともに、肉体とともに生きながら、「自分だけがその法則から逃れる」ということはできない。誰もがそうなのだ。物質と肉体を置き去りにして去るというのは、自分の物質と肉体を捨てるという意味だけではなく、その法則で動いている流れ、舞台、ステージそのものを置き去りにするということでもある。
 レベル6は、地球を完全に去り、新しい舞台に生きることになった状態である。もう超重力に悩まされることはない。遊園地での遊びは終わったのだ。
 
 最後に私は、このレベル5のところで述べたことを、もう少し話したい。物質を抱え、肉体を抱えたままでいるならば、その法則に従わなくてはならなくなるということを強調したいのだ。肉体を抱えたままで、欲望のすべてを無きものにしようとする努力をしようとするものがいる。それはおそらく、忍耐とか、抑圧とか言われる状態に自分を追い込むことになると思うのだ。修行僧たちが山奥の寺に籠り、女人禁制とか男人禁制のような環境を作るのも、肉体がある以上は、肉体の法則としての欲求が発生するのが自然なことだということを理解しているからだろう。
 このような欲望がゼロになるのは、物質と肉体を完全に除去したときのみだ。しかし上記のように工夫によって、その物理法則や肉体法則から距離を取ることはできる。それは、肉体にはまりきらない生活を送るということだ。食事を少なくし、人里離れた場所に暮らし、グラウンディングしないように生きるということだ。魂が肉体に合致せず、夢見るような生き方をするということだ。当然、世間から見れば役立たずになる。役に立つということは、世間に巻き込まれており、肉体と物質を抱え、その法則と共に生きることにつながるのだから。
 私には、まずは世俗に生きて、十分にそれを味わい、飽きて、徐々に離脱していくという方法がフィットした。一方で、地上的欲望そのものをどうとらえるのかというのが、難題であった。その欲望を否定すると、おかしなことになる。抑圧は、歪な生き方と、歪な人間関係を作り出すからだ。苦労が大きくなるのだ。ゴールは益々遠のく。
肉体を背負っている以上、地上的欲望という名の自然法則とともに生きることになる。そしてその欲望の形は、人によっては世間からズレていたり、異様なものだったりもすることはあるだろう。出生図を見れば、その傾向は見えてくるはずだ。しかしその違いは、それほど問題ではない。問題は、もっと根本的なことだ。
 地球から脱出するとき、肉体とともに地上的欲望も置き去りにすることになる。それは消えてなくなる。その欲望が消えたとしても、存在が消えるわけではない。新しい舞台における新しい望みが現れるだけだ。もし新しい舞台と新しい望みの可能性を知らないのなら、いつまでも地上的な欲望にしがみ付こうとすることだろう。
 欲望も肉体も物質も地球も、いずれ置き去りにしてくことになるということを、心に留めておくことだ。そのことが、地球生活を楽しみつつ、放棄するべきときには無理なくそれらを放棄することを可能にしてくれる。そのためには、自分の欲望に気づいていなくてはならない。気づいていない欲望は、制御不能であり、依存していることになり、手放すことが不可能だからだ。
 この気づきとコントロールと肉体を置き去りにする前提を忘れないことを可能にするためには、自己想起のメソッドが大きな役割を果たす。私からの最後の助言だ。自分のことをよく観察していなさい。

あとがき
 書き終わってから思い出したのですが、 松村潔先生が、いつかfacebookで報告されていた夢で、天王星のことや「力」のカードのことをいくつか語っておられました。私はその報告のあった日の朝の明晰夢で、うろ覚えなのですが、松村先生と数人の学徒の方々と共にいて、水瓶座について何か議論していました。
 もう一つ、別の明晰夢で私は、黄金に輝く「戦車」のカードを見て、私を含めて4人の男女で双六をしていました。
 私は松村先生のタロット道を重視させていただいており、私なりに取り組んでいますが、「戦車」と「力」の段階に、障壁があるように思えるし、他の方々もそういうケースが多いのではないかな、と想像しています。
 この障壁を超えるためのチェック項目というか、そのための双六のようなステップを、私の視点から書かせていただいたように思います。全体としては、そのカードのことからはみ出た内容もありますが、それはここで伝えたいことの全体的な位置づけのために必要だったはみ出しだと思います。
 このシリーズは、ここで取りあえずの完了として、すでに次に書きたいことも出てきました。自分が学ぶべきことを私は書くのかもしれません。書くことでまとまり、次に進むというわけです。
 一番の希望としては、変成意識で見たものの報告書のようなものを書きたいのですが、その前に書きたいことが少なくとも2つあり、それが終わらないことには、始められません。

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