夏の思い出~夏越の大祓~
川瀬流水です。今年は、異常なほど蒸し暑い夏が続きました。ということで、少々時季はずれですが、我が家にこもって、形ばかりの夏安吾(げあんご)を過ごさせていただきました。
まだまだ残暑は厳しいですが、9月を迎えるにあたり、今年の夏の思い出ということで、投稿させていただきます。
昨年は、4度もコロナの予防接種を受けたにも関わらず、今年7月、とうとうコロナに罹ってしまいました。
幸い安静にしていましたので、大したことはありませんでしたが、改めて感染症の恐ろしさを感じとることができました。
明治時代に、日本での災害の記録を詳細に分類し、取りまとめた「小鹿島果」(おがしま・はたす、1857~1892)は、著書『日本災異誌』のなかで、わが国を襲った災異(さいい)を、飢饉(ききん)・大風・火災・旱魃(かんばつ)・霖雨(りんう、長雨)・洪水・疫癘(えきれい、疫病)・噴火・地震・海嘯(かいしょう、津波)・蟲害(ちゅうがい)・彗星(すいせい)、の12種類に分類しています。
小鹿島果による分類のなかでも、疫癘(疫病)は、飢饉・霖雨・洪水など他の災異に伴って発生する流行性の恐ろしい災いとされてきました。
小鹿島より少し後の時代になりますが、明治から昭和にかけて活躍した医学者で、日本の医学史に造詣の深い「富士川游」(ふじかわ・ゆう、1865~1940)は、わが国を襲った歴史的な疫病として、痘瘡(とうそう、天然痘)・水痘(すいとう、水ぼうそう)・麻疹(ましん、はしか)・風疹(ふうしん、三日ばしか)・虎列刺(コレラ)・流行性感冒(インフルエンザ)・腸窒扶斯(腸チフス)・赤痢(せきり)、を挙げています。
コロナは、まさにこれらに続く令和の疫癘(疫病)であり、世界史に残るパンデミックとなりました。
こうした恐ろしい災いは、深く静かに、我々の周囲に忍び寄ってきます。そして、突如その姿を現します。
疫病の人知を超えた威力の前に、なす術がなかった我々の先人たちも、やがて、ひとつの有力な対処法を見出します。
古来より、人々に疫病をもたらす恐ろしいモノは、神とも捉えられてきました。疫神(えきじん、やくじん)、あるいは行疫神(ぎょうえきじん、ぎょうやくじん)と呼ばれる存在です。
そして、疫神のなかで最も力の強い存在を、改めて神として盛大に祀り、その圧倒的な威力をもって、他の疫神を封じ込めて貰おうというやり方です。
恐ろしいモノを、もっと怖ろしい存在の力を借りて制御しようという、何ともうまいアイデアだと言えます。
13世紀後半の鎌倉時代末期、卜部兼方(うらべ・かねかた)によって書かれた注釈書『釈日本紀』(しゃく・にほんぎ)のなかに、「備後国風土記(逸文)」(びんごのくにふどき・いつぶん)として、「蘇民将来説話」(そみん・しょうらい・せつわ)が載せられています。
昔、北海にいましし武塔神(ムトウシン)、南海神の女子をよばひに出でまししに、日暮れぬ。
その所に蘇民将来二人ありき。弟の将来は富饒、(中略)宿処を借り給ふに惜しみて貸さず。兄の将来は甚貧窮、(中略)粟飯等をもちて饗へ奉りき。
年を経て、八柱の子を率て還り来て、詔りたまひしく、「我、将来のために報いせむ。汝が子孫、その家にありや。(中略)茅の輪をもちて、腰の上に着けしめよ」
詔に従ひ着けしむるに、その夜に蘇民の女子一人を置きて、皆悉に殺し滅ぼしてき。
すなわち詔りたまひしく、「吾は速須佐雄能神(ハヤ・スサノヲノカミ)なり。後世に疫気あらば、汝蘇民将来の子孫と云ひて、茅の輪をもちて腰に着けよ。詔に随い、着けしむる人あらば、将に免れんとす。」
武塔神(速須佐雄能神)と八柱の子は、ともに疫神であり、父神は子神による人々の殺戮を誘導し、同時に制御しています。
こうした「疫神の王」の存在は、疫病の恐怖に慄く先人たちの心をとらえ、それを盛大に祀ることによって、その力にすがりたいと願ったことでしょう。
それにしても、私は、この物語のなかで不思議に思うことがあります。
武塔神は、兄の蘇民将来の女子一人を残して、他の者全てを殺戮させています。この読み方が正しいとすれば、彼をもてなしてくれた蘇民将来本人も殺されたことになります。
この理不尽に思えるストーリーを読み返すとき、神とは、我々の善悪の判断を超えた、決して我々の意のままにはならない、恐ろしい存在であることを、改めて感じます。
宮中における「大祓」(おおはらえ)の儀式は、応仁の乱以後途絶えていましたが、1871(明治4)年、明治天皇によって400年ぶりに再興され、翌1872(明治5)年の太政官布告で、全国の神社でも行うよう求められました。
大祓のうち、夏季に行われる「夏越の大祓」(なごしのおおはらえ)では、全国の多くの神社で「茅の輪(ちのわ)くぐり」という神事が行われます。
神社の境内に、チガヤで作られた大きな輪が設置され、この輪をくぐることによって、人々は、わが身の穢れを祓い、無病息災を願います。
これは、蘇民将来説話のなかの「茅の輪を腰に着けて疫気を避ける」行いが、大きな茅の輪をくぐることに置き換えられ、疫病をはじめとするあらゆる災いからわが身を守ってくれる、という信仰に広がっていったものと考えられるようです。
今年7月15日(月)の海の日(祝日)に、神戸三宮の生田神社で催された「夏越大祓式」に参加させていただきました。
拝殿に上がらせていただき、人形(ひとがた)をした形代(かたしろ)で、身体を撫でたのちに息を吹き込み、お祓いをしていただきました。
お祓いを受けたのち、参道中央に設けられた大きな茅の輪の前に進み、神職に先導いただきながら、茅の輪くぐりを行いました。
私事ですが、来年早々、次男家族に待望の第一子が生まれる予定なので、大祓式の帰途、安産祈願のお守りを買い求めました。
神戸市兵庫区の有馬街道が六甲山系に入る山際に、素盞嗚尊(スサノヲノミコト)・櫛稲田姫命(クシイナダヒメノミコト)を祭神とする「祇園神社」があります。
祇園神社から、近くを流れる天王谷(てんのうだに)川に沿って、南西方向に約500メートル下ると「雪御所(ゆきのごしょ)公園」に着きます。
この平野(ひらの)の地は、平清盛が遷都した「福原京」の中心エリアにあたり、古くより京都とゆかりの深い場所でした。
祇園神社の由来をみると、清和天皇の時代、平安京で疫病が蔓延したため、播磨国の廣峯社(ひろみねしゃ)に祀られていた素戔嗚尊を、京の祇園感神院(かんしんいん、祇園社)に分祠した際、平野の地に立ち寄り、祠が作られたとされています。
廣峯社(現在の廣峯神社)、祇園社(現在の八坂神社)ともに、中心となる祭神は「素戔嗚尊」ですが、1868(慶応4・明治元)年の「神仏分離令」発布以前は「牛頭天王」(ごずてんのう)とされていました。
牛頭天王の起源については、諸説あるようですが、その基本的性格は、お釈迦さまの生誕地に因む祇園精舎の守護神であり、疫神として素戔嗚尊と同一視されてきたという点にあるようです。
神戸平野の祇園神社は、毎年7月に、8日間にわたって夏祭り(祇園まつり)が行われます。今年も、7月13日(土)~20日(土)の間に開催され、多くの参詣客が訪れました。
石段を一気に登り終えて、境内に上がると、正面に拝殿があります。周囲には、10軒ほどの屋台も出ていました。
参拝を済ませて奥に進むと、本殿の手前に、大きな茅の輪が設置されています。家族の無病息災を願って、茅の輪くぐりを行いました。
しばらくすると、奥の本殿で、巫女さんによる「お神楽」の奉納が始まりました。これは、祭りの期間の連日、夕刻から行われているものです。
厳かに舞う巫女さんが「櫛稲田姫命」の姿と重なり、后神の舞に導かれて、主祭神「素盞嗚尊」が本殿に降り立ってこられるような思いに囚われました。
夏祭りの帰途、夏越大祓にちなみ、いくつかお守り(蘇民将来護符)を買い求めました。
上図左下は、小ぶりの「茅の輪」で、蘇民将来説話のように、腰に着けることができそうです。
中央は、「蘇民将来子孫也」と記された「こより」で、かわいらしいものですが、どのように使うか、少し悩みそうです。
右上は、「ちまきのお守り」で、5巻がひとつの束となっており、門口に吊り下げておくとよいそうです。
さらに、「蘇民将来子孫人也 家門繁榮」と記された六角形のこけし型のお守り(蘇民将来護符)、直径2.5CM・高さ7.8CM、も買い求めました。
これは、仕事部屋の机上に置くのにちょうどよいサイズで、祇園神社を訪れたら、是非手に入れたいと思っていたものでした。
なお、これは祇園まつりの期間に限らず、入手することができます。
今年の夏は、パリ・オリンピック、パラリンピックが開催され、日本人選手の活躍もあって、華やかな雰囲気に彩られました。
一方で、異常な蒸し暑さ、かつてないほど強力な台風、不気味な地震、常態化するコロナなど、不安な出来事も多くありました。
振り返ってみると、小鹿島果が掲げた災異の多くを経験していることに、気がつきます。
夏生まれ、漁村育ちの私は、この季節が大好きなのですが、同時に、夏は「祓え」を必要とする季節であることを、改めて感じることができました。
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