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自分の中で広がる「友人」の概念~noteでも感じる不思議な縁~

 学生時代から30年以上続いている友人が二人いる。遠くに住んでいるけど、今の時代のおかげで、ずっとコミュニケートし続けられることはありがたいものだ。

 実は、学生時代の頃の女子グループというものに関して、長い間、かなり堂々巡りを繰り返していた。あまり悩まない私だけど、あれは悩んでいた。
 気が付かないうちに、私はその女子グループの中で自分を偽り、無理して皆のことが好きなフリをしてしまっていた。「ちょっとくらい何かあったってみんなのこと好きだよ」っていう自分のことが好きだったのだと思う。それに気づいた時、好きでいないといけない、と思うことがストレスになっていることがわかって、交流を一切やめてしまった。もう少し上手に徐々に距離を取れば良かったなあと思う。30代前半の頃だ。


 でもしばらく、突然交流をやめてしまった罪悪感と、それまでの偽りの自分で付き合っていた申し訳なさを引きずった。何て偽善的でいやな人間だったのだろうという思い。さらにはその五年後くらいに、その中の一人とどうしても和解したいと思ったのだから、ずいぶんグズグズしていたと思う。堂々巡りをして困っていた時、このことを友人に打ち明けたら、「だけど、そんなのきっと誰にもある感情だから、そんな悪く思うことじゃないよ。誰だって人に好かれたいし、自分のこと好きって思いたいもん」と言ってくれた。彼女は、子供を通じて友人になった人だ。大変励まされた言葉だった。


 そこからさらに5年後、40代前半頃に、中学高校時代を美化していたということにも気づいた。気持ちに決着がつくまでさらに数年。つまり一年くらい前まで葛藤があった。

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 ニュージャージーから、小学1年生の秋に日本に戻ってきた。その時の担任の先生は「帰国子女である」ことがどういうことなのか少々理解がなく、そこで一気に私は委縮してしまう。周りの同級生たちをとても怖く思っていた。2年生の先生は素晴らしく、私の心を解放してくれて、楽しく過ごせた。

 ところが3年生になる時に、市内の別の学校に転校した。この学校で私は変わり者扱いされて4年生の一時期いじめられ、5年生では孤立させられた。
 でも6年生になる頃、2年に一度のクラス替えが、多くの転出があったために行われ、担任の先生も素晴らしく、楽しく過ごすことができた。友人もたくさんできた。

 ただ帰国した直後と転校した直後の委縮で、とても窮屈そうだった私を母が見かねていて中学受験させた。その中学から入った学校が、それまでの反動で自由に思えた。

 先生方も鷹揚に構えた方が多く、私たちは自由と協調、責任感を学んでいった。女子校だから、クラスの中心人物も女子になるわけで、笑いを取るのも責任を取るのも女子。グループはたくさん分かれていたけど、グループでかたまりすぎるわけでもなく、境目がゆるくて、誰とでも気軽に声を交わせる感じが居心地良かった。

 私はその学校が確かに大好きだった。でも嫌な気分もたくさん味わったことを忘れていた。マウンティングもいじめもすぐになくなったけど、人気者を取り合う雰囲気は常にあった。私はあの子と仲が良いのよとアピールし合うのが面倒くさくてならなかった。自分もそういうところはあって、思い出すと頭を抱えたくなるような言動をしていたことがある。私が今も続いている友達二人も、それぞれ人気があり、取り巻きが常にいた。強烈なマウンティングではなくても、嫉妬心に巻き込まれるのが面倒で、あえて近づかなかった。でもベッタリ一緒にいたことはなかったのに、ずっと何となくわかり合えていた気がする。

 女子グループとは、帰国子女である自分を抑えて付き合っていたのだけど、その時はそれほど窮屈ではなかった。卒業して少しずつ自分のhspの部分が発揮されてしまい、さらに子供ができて考え方が全然違うことに愕然としてしまい、自分の本心に気付いて離れることにした。

 確か、ウェブサイト「ほぼ日刊イトイ新聞」で、糸井重里さんが書いたものだったはずなんですが、印象に残った文章がある。ちょっと細かいところは定かではなく、私の解釈の仕方により、記憶があいまいなことにはご了承下さい。

私たちは、小舟(この「小舟」でさえ定かではありません)に一人ひとり乗っていて、小舟が近づくとお喋りを交わす。でも流れがあるから小舟は離れることもある。離れたままそれぞれ進んでいることもあるし、それを遠くで見守っていることも、また近くに寄ることもある。自然にそうなっていく。


 曖昧な記憶のまま書いたけど、そういった内容だったと思う。それが友人関係の自然なものなのだと。
 その頃は、まだ女子グループの一人と和解したいと思っていたので、そのように思いたくなかった。けど、頭から離れない文章、内容だった。そういうものなのかなと。人生の先輩が言っている言葉だ。そうなのかもしれない。そんな風に思えるようになったら、その時の悩みも軽くなるはずだ。でもまだ納得したくない。そして、そのように思えるようになりたいなと、ずっと思っていた

 その考えの中には、大人になってから親しくなった人たちも入っている。
 大人になってからの友人というのは、私にとっては学生を卒業してからですね。
 仕事で知り合った人。勉強している時に知り合った人。結婚してから知り合った人。子供ができてから知り合った人。子供が大きくなってから知り合った人。

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 以前、私は「すべてをさらしあう」ことを友人だと思っていた時期があった。
 何故かわからないけど、それを長い間信じていた。それで相手を傷つけたことは数知れず。何度も後悔してようやくわかった。そういうことじゃないんだと。経験を重ねていくうちにわかっていった。この人とはここが合うからそこを会話の中心としよう、と思うことで。でもそれを「友人」と、以前は呼んでいなかった。私の中で「知り合い」なだけだった。
 

 だけど、ここが合うからの「ここ」が、自分にとってまあまあ大きく占めているんだったら、それで充分なのではないかと、ある時突然気が付いた。学生時代から続いている友人がいるっていうことは、むしろとても希少な例で、それ以降の友人がいて当たり前なのではと思い始めた。

 以前書いたことがあるのだけれど、帰国子女であることとhspであることは、今では外せない前提として自分の中で大きく占めている。それを知っている上で付き合っている人たちというのは、何も「すべて」を知り合い、思い出を共有してこなくたって、友人ではないか。何故私は学生時代からの友人しか、ホンモノじゃないと思い込んでいたのだろう。
 私にしたら、自分を誤魔化し続けていた6年間だったではないか。そのたった6年の間の友人たちを、たとえ思春期という繊細な時期に付き合っていたにしても、何故一生の友人としなければいけない、と思い込んでいたのだろう。そして子供を通じた母親友達は、きっと親しくなりきれない、とどうして長い間思っていたのだろう。そうじゃない人たちも、小舟が近づいて楽しく話せる。それもまた充分私にとって楽しくて大切な友人たちなのだ。
 そして思いもよらぬ、夫を通じた友人もできた。ベッタリするわけでもなく、趣味が完全に一致しているわけでもなく、ただお互いを尊重しているという気持ちが通じ合っている。と思っている。

 大人になってからの友人も、私には大切だ。そして心許せる友人は、大人になってからでもできていく。まだ出会いがあるかもしれない。noteでコメントを交わす時、今後続くんだろうかとか、ネット上で少し言葉を交わすだけだとか思うこともあるけれど、中には不思議な縁を感じる人たちもいる。実際に会ったら何を話せば良いのかわからないかもしれないけど、何となく居心地良くて楽しいんだろうなという人たちが、ネットを通じてわかるのはとても不思議で面白い。


 大勢の集まる場所は苦手だし、身体も軟弱だし、もう40歳も後半だけど、人間関係が狭まっていく気は全然しない。


#友達 #友人という概念 #学生時代の友達 #大人になってからの友達 #noteで知る方たち

読んでいただいて、ありがとうございます! 心に残る記事をまた書きたいです。