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プロローグ  『逆転の旗を掲げ』

 羽田空港に降り立った。ハワイからだ。

 1980年10月である。

 常夏のハワイと違って、日本は肌寒い季節に入っていた。

 南野悠太は、擦り切れたジーンズに上着はジャージという服装だった。荷物といえば、ダークブラウン色のスウェードボンサック。同じ便で降り立ったアメリカ人が、異様な目で悠太を見る。髭だらけの顔にそんな服装なら無理も無い。

「そんな目で見るなよな……」悠太は怪訝そうにそのアメリカ人を見返した。一度到着口を出て、すぐに大阪伊丹行きの搭乗口に向かう。

「イテテ……。少し痛むな……」悠太は呟き、自分の腰のあたりを右手でさすった。

「あのアメリカ野郎……」

 サンフランシスコのフィッシャーマンズワーフ。入店したサングラスショップでナイフを突きつけられた。ただ、欲しかったレイバンのサングラスを探していただけだ。

 なかなか決めなかった悠太に、若い白人の店員がナイフで脅しをかけてきた。

「何だ?お前たち買わないのか?」店員はたしかにそう言った。

 買わなかったら何だ?選んでいただけだ……。

「ジャップ!チキン(臆病者)」この言葉は許せなかった。悠太は言われた瞬間、店員に飛びかかっていた。あの時、翔一が止めなかったら今頃大怪我をしていたかもしれない……。悠太は太平洋横断の航海を振り返りながら、伊丹行きの搭乗口まで歩いた。

 安藤英希と山口翔一。半年におよぶ太平洋横断の航海を共にした仲間と、ハワイで別れた。腰痛がたまらなく酷かったからだ。そして、サングラスショップでの喧嘩。あの時、翔一が止めなかったら……。腰痛だけではすまなかっただろう。

悠太は時々腰のあたりをトントンと叩きながら、少し前屈みで搭乗口を過ぎた。

 羽田発伊丹空行き。日本航空112便に乗り込む。

「半年ぶりか……」悠太は呟いた。この頃の伊丹伊空港は利用者が二千万人を超えている。悠太が降り立った空港到着口には、旅行者らしき家族連れや、出張らしきサラリーマンで溢れていた。手荷物検査を済ませて、到着口に向かう。ふと、雑踏の中に麗子の顔を確認する。無表情だ。ただただ無表情だ。

 ベージュのシフォンブラウスに薄紫の膝下スカート。巻き髪姿が悠太の高揚感を誘う。悠太は近づいていくにつれ、麗子の表情が緩んでいくのが分かった。

「帰ったよ……」悠太は無愛想に麗子に言った。

「おかえりなさい」麗子は、悠太の左手のひらを優しく握って囁いた。ほとんど化粧もしていない。素顔のままの麗子が悠太は好きだった。

 麗子とは、運送会社の同僚谷口進の紹介で知り合った。奴の初デートになぜか麗子が付いてくることになり、悠太に声がかかったのだ。言わば数合わせの誘いである。しかし、悠太は初めて麗子を見るなり、その容姿に釘付けになった。一目惚れである。

「航海は思い切り楽しめたの……?」悠太は正直そう聞いて欲しかったが、そんなことは聞かない女である。ただ、「無事でよかった……」そう言って微笑んでくれた。

 腰を痛めたせいもある。だが、ホライズン号での航海を志半ばで諦めたこと。このことが悠太の気分を幾分暗くしていたのは事実である。ただただ、英希と翔一の無事の帰還を願わずにはいられない悠太であった。

 電車に乗り込み、帰路に着く。隣の席で悠太の左手を自分の膝の上にのせて、麗子は俯いている。

 大阪府東大津市。しとしとと降る雨が、ゆううつを誘う。下町の空気が漂い、安宿や立ち飲み屋が並ぶ路地を抜けた4畳半の部屋。悠太が半年間留守にしていた部屋である。けっして治安のいい街ではなく、喧嘩や暴力沙汰は日常茶飯事であった。

 半年ぶりの我が家だ。悠太と麗子は、ちゃぶ台を囲み買い込んできたお持ち帰りのお好み焼きを広げた。

 ちゃぶ台と布団だけの何もない部屋。十月に入っているためか、夜はぐんと冷える。

 二人は毛布にくるまった。

「ずっと心配していたんだよ……」

 そう言って麗子は、悠太の腕の中で泣いた。これまで、張り詰めていた気持ちが弾けたように……。

「結婚しようか……」

 思わず口にした。なぜ、このタイミングで打ち明けたのか、悠太には皆目解らない。半年もの間、生死のわからない太平洋上の恋人を想っていてくれたのだ。国際電話で時々声を聞かせていたとはいえ、憂いゆえの心の痛みは耐え難いものだったに違いない。

「結婚しようか……」

 もう一度悠太は言った。嗚咽の中、麗子はわずかに頷いたようだった。

「話したいことが山ほどあるんだ」

 台風の時化。不審船の強制節減、大型貨物船とのニアミス……。生きて、麗子を腕の中に包んでいること自体不思議な感覚だ。

「聞いてくれ。腰の痛みがあったとはいえ、俺は航海を途中であきらめた……。友を置いて俺だけ帰国した。情けない男だ」

 悠太の心の中でつぶやいた言葉である。声に出したところで、麗子には何も響くまい。「航海とか……海とか……ヨットとかどうでもいい……。貴方が無事に帰ってきてくれたなら」きっとそう言うに違いないのだ。

 寝息と嗚咽を繰り返して、悠太の腕の中でうずくまる麗子を、悠太は改めて見つめた。

 悠太は思った。麗子と歩いて生きて行こう。

 この夜が二人の日々の始まりだった。


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