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大学サッカー(進路編)

人には人生を大きく左右する少しの運だったり、選択を迫られる瞬間がある。

僕がいま、プロサッカー選手になれているのも、この選択がすべて良い方向に進んでいたからなのかもしれない。

だからと言って別にプロサッカー選手になったことが成功だとは思わない。

僕はもともとポジティブな性格なので、おそらくプロサッカー選手になっていなかったとしても、幸せに暮らしているだろうと思う。

もしも僕がフロンターレのユースのセレクションに受かっていたら、僕はプロサッカー選手になれていただろうか?
ふとしたとき、よくこんなことを考える。
そもそもフロンターレユースのセレクションには落ちていたので、選択も何もなかったのだが、それだけ一つ一つの運や選択は、人の人生を大きく左右するということだ。

高校を卒業するときの僕にも、いくつかの選択肢があった。
一つは大学に行ってサッカーをする。
もう一つは社会人になってサッカーをすることだった。

今の事情がどうなっているかは、詳しくはわからないけど、当時の高校サッカーは、インターハイで活躍した高校やその選手から、大学の推薦などの進路が決まっていく。
僕はインターハイに出られなかったため、なかなか進路が決まらなかった。
そんな中、サッカー部の仲間の親の紹介で、自衛隊社会人チームからオファーをもらった。
 
この時点で自分はプロサッカー選手になれるとは思っていなかったので、仕事をしてお金をもらい、大好きなサッカーができるということが、自分にとってとても魅力的に感じた。

親にも散々お金のことで迷惑をかけてきたので、これでやっと自立できるとさえ思った。

それでも大学サッカーに全く興味がなかったわけではなかった。
だから、とりあえず練習参加だけでもしてから自分の進路を決めようと思い、当時関東1部リーグの流通経済大学と関東2部リーグの尚美学園大学の練習に参加させてもらった。

練習参加してみると、どちらからも好印象の評価をもらった。だけど、自分自身が何だかしっくりと来なかったのだ。

そんなときだった。拓殖大学からもオファーというか、声をかけてもらった。
僕の尊敬する高校の1つ上のキャプテンが、前年に拓殖大学のサッカー部に入部していたこともあり、かなりの情報をもらうこともできた。その尊敬する先輩がいることと、保育園からの幼なじみである同級生の小野寺達也が、すでに拓殖大学への進学が決まっていたことが、僕にとって心を動かす契機になった。
僕は素直に、拓殖大学でサッカーがしたいと思ったのだ。

決意した僕は親にも、「まだ大学でサッカーがしたい」と説明した。奨学金を使い少しでも親に迷惑をかけないようにして大学に進学することを決めた。

結果的に、この選択が僕の人生を大きく変えたと今でも思っている。

もし、このときに、僕が社会人の自衛隊チームに入っていたら、プロには絶対になっていない。
そして、僕の心の支えである妻や子どもたちにも出会えていないと思うと、本当に人生とは面白いものだなと思う。

冒頭に僕がプロサッカー選手になっていなくても、多分幸せに暮らしているだろうと思うと書いたけど、これだけは絶対に言えることがある。

他の誰かと結婚をして、その誰かとの子どもが産まれていたとしても、今の家族以上の幸せは絶対にない。
それくらい今の家族で良かったと思っているし、幸せを感じている。

少し話が逸れてしまったけど、この経験から、僕が何を言いたいかというと、一つの選択でここまで人生が変わってしまうということだ。

僕にとって拓殖大学を選んだことは、最高の選択だったと言える。

そのことを次のnoteに綴っていきたいと思う。