挫折の中学3年間

 中学生になった僕は、小学生の頃に通っていた町田SSSからそのまま上に上がる形で、町田JFCというクラブチームに入った。

 ただ、僕のサッカー人生の中で中学の3年間は、1番努力をしなかった時期だったように思う。
 小学生までの自分が嘘だったかのように何も残せない3年間だった。いま、プロサッカー選手を目指している子ども達や、その親子さんがこのnoteを読んでくれているならぜひ聞いてほしい。

 プロサッカー選手になっている人のみんながみんな、順風満帆な人生なんて送っていないということを。

 ずっとエリートで来ている選手なんてごく僅かだということを。

 むしろ僕が思うに、挫折を多く経験した選手のほうがメンタル面で強いと思う。僕もその1人だと自覚している。

 中学時代の僕がなぜ努力することをやめてしまったのか。それは成長期が遅く、周りとのスピードとフィジカルの差が圧倒的にあったこと。そして、小学生の頃の輝いていた自分とのギャップに耐えられなかったことにある。

 今では考えられないが、学校が終わった後に毎日のように駄菓子屋に行き、練習の時間が迫って来ると何度も思った。

『めんどくさいな。行きたくないな。』と。
 それでも結局、練習に行くことをやめなかったのは、サッカーが好きだったことと、少なくない遠征費やサッカー用品を買ってもらっている親への後ろめたさがあったからだと思う。

僕自身にやる気がなかったからか、たいした成績を残せなかったからかはわからないが、僕は中学3年間の試合のほとんどを覚えていない。

 自分の中の思い出したくない過去だから、自分の中で消してしまったのかもしれない。

 当時、中学時代の僕の友達に、僕がプロサッカー選手になれると思う?と聞いたら100人中100人がなれないと思うと答えるだろう。

高校に上がる時もマリノスユースや、ヴェルディユースのセレクションを受けたいと監督に伝えたところ、「それはいくらなんでも厳しい」と言われた。まず身長が低かったこと。
あとはチームとしてもそれほどの成績を残せていなかったこと。

当時、マリノスユースやヴェルディユースよりも少しレベルの低かったフロンターレユースとベルマーレユースのセレクションなら受けられるということになった。

僕はもうそれに賭けるしかなかった。

そしてフロンターレユースの練習参加も、ベルマーレユースのセレクションでも自分の力はかなり出せた。

手ごたえはかなりあった。
 
それでも結果は、両方とも落選。

僕は自分の力が出せたのに受からなかった。

自分の力が出せなくて落ちるんならまだしも、自分としてやれたという手ごたえがあったにもかかわらず受からなかった。

 これは当時の自分としてはかなり厳しい現実だった。プロサッカー選手をあきらめる。そう決断しないといけないところまできていた。

 そんな中、僕の母親のもとにこんな情報が入ってきた。
それは僕の母の母校でもある麻布大学附属渕野辺高校が、来年度からスポーツクラスが始まるという情報だった。

そして僕の母が高校生のときに担任を受け持っていたのが、サッカー部監督の石井先生だった。
そういう繋がりもあり、無事にスポーツ推薦で合格した僕は麻布大学附属渕野辺高校への入学が決まった。
 
しかしながら当時の麻布大学附属渕野辺高校サッカー部は神奈川でも強豪とは言えず、僕が入る数年前に選手権ベスト8に行ったのが1番良い成績で、とてもじゃないけど神奈川県の中で強いサッカー部とは言えなかった。

 それでも僕には選択肢がなかった。
サッカーだけしかやってこなかった僕にサッカーをやめるという選択肢はなく、サッカーを続けながら楽しく高校生活を終える。

それくらいの考えしかなかった。

そんな僕が2年後に全国高校サッカー選手権大会に出るなんて、入学した当時は、夢にも思っていなかった。