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大学サッカー(後編)

大学2年でベストイレブンに入ることができたが、得点王はあと一歩の所で獲れなかった。
この時から自分の中での練習の意識が格段に変わった。
自分のゴール一つでチームを勝たせることもできるし、負けさせてしまうかもしれない。

自分が得点王を獲る=1部昇格なんじゃないかと思い始めていた。

この意識改革によって練習や練習試合での1本1本のシュートの重みを感じるようになった。 どれだけ良いプレーをしていても、ゴールを決められなければ意味がない。
そう思うようになっていた。
このプレッシャーを乗り越えていける人間がストライカーになれるんだと信じていた。

その意識が良い方向に進み、2部リーグの前期をたくさんのゴールを決めて中断期間に入ることができた。
そして中断期間に入る前の水戸ホーリーホックとの練習試合で、僕はプロ相手に2ゴールの活躍を見せた。
自分の中でも手応えを感じていた。
この練習試合の次の日に拓殖大学の監督から電話があり、水戸ホーリーホックの当時の監督である木山隆之監督から電話をしたいとの報告があった。
僕はドキドキしながらその電話を待った。
電話の内容は特別強化指定選手として水戸ホーリーホックの力になってほしいという内容だった。
電話を切った後もまだしばらく自分の心臓がバクバクしていたのを覚えている。
やっとプロへの道がはっきりと見えてきたからだ。
こうして、大学サッカーの前期と後期の中断期間の1ヶ月半の間、水戸ホーリーホックにお世話になることになった。
その1ヶ月は全てが新鮮だった。

プロと大学生‥‥何が1番違かったかと聞かれたら間違いなくこう答えるだろう。
大学生の試合はお金を払わなくても見れることが多いが、プロは違う。
サポーターがお金を払って試合会場に足を運んでくる。
半端なプレーは見せられない。
プロの試合にはそれだけ重みがあった。
学生の試合とはそこが明らかに違っていた。
これを大学3年生の時に経験できたのは自分としては本当に大きかったと思う。

自分はずっとフロンターレの選手だったと思われることが多いが、間違いなく自分のプロとしての原点は水戸ホーリーホックだった。
だから水戸ホーリーホックへの感謝は絶対に忘れることはない。

この経験もあって、大学3年生の22試合で僕は19ゴールという成績を上げ、目標にしていた得点王を受賞した。

それでも、残念ながら拓殖大学は3位で1部に上がることが出来なかった。

大学最終学年に経験した山あり谷ありの1年間を次の完結編で綴っていこうと思う。