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おいしい料理

 ある秋の青い空が小さな湖畔に映り光っている。他に湖畔に映るものといえばうんざりするほどの木々の緑。ヒキガエルが一匹、枯れた石の上で日々の鬱々とした不満を撒き散らそうと鳴いている。湖畔に沿った山道はカーブを描き、タージマハルを模したピンク色のラブホテルの脇を通り、麓の市街地まで続いている。桜の木が一本、ガードレールと湖畔のあいだに生え、枝は密集する木々の僅かな隙間に伸びて、幹には黄緑色の苔が生えていた。桜の根元の腐って崩れ落ちそうな木の看板に、滲んだ赤い文字で「部落差別するな!」と書いてあった。今その集落には誰一人として住んではいない。住人達は便利な町に越したのだった。

 この坂道を50代の男が赤い自転車に乗って下ってきた。男は白髪交じりの髪をクリームで後ろに撫で付け、仕事前の緊張した面持ちであった。男が湖畔の左手を通過するとき、自転車のベルを鳴らした。するとヒキガエルががあがあと鳴き、湿地に隠れていた鳥の群れが羽ばたいていった。木漏れ日が路上にゆれる坂道を自転車でしばらく下って行くと、道は平坦になり、両側に黄金色の稲が広がる田んぼのあいだの農道へ出た。昔この農道では農家が牛に糞をさせるままにして引きずり、大名は遅れを取った武士たちを打ち首にした。今、その路肩を田島婆さんが今年最後の草刈りに出かけるのが見えた。
「田島さんおはようございます。今日も早いですね」男が言った。
「はっ、びっくりした!黒須さんじゃないの。あんた後ろからいきなり挨拶なんかしないでよ。ばっかー、心臓止まっぺーよ。おはよーう。そうだちょっと家寄ってくんなはれ。持ってってもらいたいものあるんでねえ。ほら、着いてきて」田島婆さんは手招きした。
白い手拭いをふわりと頭に巻いた田島婆さんは、家への細道を進む。「あんた若えのにもっと速く歩けんかねえ」
「すみません、体が鈍ってまして」
しばらく歩くと茅葺の立派な門の下まで来た。「ちょっとここで待ってて」と、田島婆さんは言って土間のある玄関の暗闇に消えた。しばらくして、田島婆さんが段ボール箱一杯の茄子や、見たこともないような大きさのキャベツを持って出てきた。「まだ茄子買ってないでしょう、あんた。今スーパーじゃ高いからほら持ってって。あとちょうどいいから、この手紙出しておいてくれる。それとこの宅急便。今頼めるかい。頼めるんだったら今頼みたいのよ。ちょっと最近腰悪くしちゃってねえ。運べねえんだから!困ったもんだねえ」田島婆さんは言った。
「沢山の野菜ありがとうございます。ええ、構いませんよ。ちょうど出勤するところでしたので」黒須は自転車の荷台の大きな赤いカゴに段ボールごと入れた。
「それじゃあ気をつけていってらっしゃい」と田島婆さんは言うと、朝靄が立ち込める中、自分と同じ大きさの草刈り機を持ち上げ、朝日が照らす黄金色の田んぼの方へ歩いて行った。

 黒須にとって気持ちの良い朝だったが、近頃不安に取り憑かれることがあった。数か月連続で郵便局の中で盗難事件が相次いでいるのだった。警察には通報したが、たいした被害ではないため捜査が進まない。新聞の地方欄の小さいスペースに事件の事が載っていたが、その後警察から黒須に連絡が来ることはなかった。犯人は捕まっていない。黒須は田舎の警察の呑気な性質をよく理解しているた。しかし上司へ未だに報告していないことは心苦しかった。

 黒須が郵便局のシャッターを開けて中に入ると古い木に長い時間そのものが染み込んだ匂いがした。黒須は入り口のカギを自分のデスクの引き出しにしまうと、窓口の保険やローンのパンフレットが最新のものになっているか、郵便の送り状の補充は出来ているか、ペンのインクは十分かチェックした。
十分に足りていた。なぜなら昨日の客は全部で10人ほどだったからだ。郵便局は湖畔の近く山の中腹辺りにあり、忙しい主婦は市街地の郵便局を利用した。だが黒須はこの朝の備品チェックやめることはなかった。本店から指示されていたという理由だけではなく、彼の誠実さと生真面目さの結果だった。一番奥の黒須の机から店内を見渡すと、窓口の白いカウンターテーブルと立てかけられた透明の板、四つあるグレーの机と椅子、棚には顧客のファイルが何冊も収まり、この部屋は何十年ものあいだ変わらず、黒須の体の一部になった。もうすぐ時計が8時45分を指そうという時、制服の上にベージュのトレンチコートを羽織った事務の中村が入って来た。「支店長おはようございます。今日は早いですね。子供の送り迎えがあって。すみませんいつもより遅くなっちゃって。備品チェックもやってもらってるみたいで…」と中村は詫びた。「いやいやかまわない。間に合ってるんだから詫びる必要もない」「健介君は元気か。この前遊びに来た時は大はしゃぎだったな。やっぱり男の子だ」「ええ、元気です。家に帰るとすぐゲームですけどね」中村は席に着くと金庫から切手と現金を取り出し、昨日の夕方と同じ金額であることを確認した。

 時計は9時を指し、壁に取り付けられた時計の調子はずれの音が鳴った。
「鈴木はどうした。今日休みか」黒須は言った。「とくに何も言ってなかったと思いますけど、遅刻ですかねえ」「電話もかけて来ないんじゃ無断欠勤だな。彼にしては珍しいけどな」不思議に思った黒須はポケットから携帯を取り出し鈴木に電話をかけたが、何度かけても電話口の向こうで鈴木の電話が使われていないことを知らされるばかりだった。仕方がないので、黒須は朝の業務に取り掛かった。田島さんの郵便物を最初の集配で出すことを思い出して、集荷所の黄色い箱に手紙を入れようとすると、箱の近くの床に昨日はなかった一枚の茶封筒が置かれていたので手に取った。そこにはこう書かれていた。

「支店長 今まで手紙や包みを盗んでいたのは私です。申し訳ございません。今までお世話になりました。お元気で。鈴木」

 黒須はその短すぎる手紙をもう一度読むと二つ折りにしてズボンのポケットにしまい、田島さんの郵便物を本日集荷分の棚の上に乗せた。裏口から外に出ると煙草に火をつけ吸いこんだ。

 そのレストランの今夜の入りはまずまずだった。外は雨が降っていて人出は少なかった。レストランは市街地のデパートの8階にあり、店内の温かみのある照明は各テーブルの上に落ちていつまでも店にいたくなるような気分にさせてくれる。11席あるテーブルのうち2つはソファ席で、背伸びした若いカップルや、ドレスアップした中年の男女が年ごとの結婚記念を祝いに予約する。テーブルには黄色いビニール製のテーブルクロスが掛かり、その上に磨きあげられたナイフとフォークがセットされ、空のワイングラスが光っている。羽目板の床はまだ真新しく、部屋の片隅には観葉植物が置かれている。レジの右下の黒いガラスケースには色とりどりのケーキ ―—タルト・オ・フランボアーズ、ル・ガレ・ドール、フェレ・エ・ラム―—がライトを受けて宝石のように輝いている。今夜、最後の客の親子が会計を済まそうと待っている時、白いワンピースに黒い上着を羽織った娘がガラスケースを覗き込んでいるので、矢野は「ケーキはご一緒にいかがですか」と勧めてみた。娘は父の方に目をやると父は軽く頷き、娘は「このモンブランとタルト・オ・フランボアーズを一つずつ下さい」と言った。矢野が会計を済まし「ありがとうございました。またいらっしゃって下さい」と言うと、娘の父親も「ご馳走様。美味しかったです。また来ます」と言って、店の外に出ると、二人はデパートのエスカレーターを楽しそうに喋りながら下って行った。その光景はまるで恋人同士のように見えた。

 矢野が今夜最後の客の会計をしている間、福沢は客の半分残したフォアグラを口に頬張り、キッチンの床のタイルをモップで洗い流していた。泡立った水が排水溝を通って、蓋を開けるとどぶのような匂いのする桝の中に流れ込んでいく。「おーい福沢!もうそろそろキッチン閉められるかー、そっちが終わったら、フロアの椅子全部上に上げておいてくれよ」と矢野の声が聞こえた。福沢は手を止め、大きく息を吐いて、フロアの椅子をテーブルの上に乗せはじめた。矢野がフロアの照明をすべて消すと店内は薄暗くなりキッチンのわずかな明かりがフロア全体に漏れてきた。
電話が鳴った。「いつもご利用ありがとうございます!ええ、来週の土曜ですね。かしこまりました。お待ちしております。それでは」矢野は電話を切った。
「福沢、一週間後ジビエ入ったから!ちゃんとメモしとけよ。ちょっと冷蔵庫にイノシシ入ってるか確認してくれる」矢野が訊いた。福沢は冷蔵庫の中にぎっしり詰まったタッパーを一つずつ取り出してはみたものの、中からイノシシ肉が入ったタッパーは見つからなかった。
「店長、イノシシありません!」福沢が坊主頭の後頭部を左手で撫でながら言った。
「なんだ、また撃ちにに行かなくちゃいかんな。福沢、今度はお前が行ってもらっていいか」「はい」「お前今度は前みたいに外すなよ。お前は脇が締まってないんだよ。だからすぐにイノシシに逃げられるんだ。また俺があの寂しいところに一人で捕りに行くなんて嫌だからな」「自分も嫌です」福沢は言った。「お前さっき良いっていったじゃないか。ほんと頼むぞ、お前に来週土曜のディナーはかかっているんだからな」福沢はなにぶつぶつ一人で言いながら洗い場の方へ消えていった。

 福沢の家から市街地にある「シェ・アミ」までは原付バイクで片道5分の距離にある。家賃は4万と格安で、地方で料理人を目指そうとする福沢にとってはうってつけだった。部屋の窓からは綺麗な川を見下ろせ、山々を望むことも出来た。ところが、この窓が開かれることは稀だった。福沢は夜遅く仕事から帰ると冷蔵庫の中からビールを2本出して飲み、そのあとに本人がバーと呼ぶ壁際の本棚に並んだウィスキーやジンを職場から持って来た果物や飲み物と割って飲む。酔っぱらった福沢は風呂に入った記憶のないまま布団に倒れ込み、結局カーテンを開くことなく早朝家を出るのだった。
しかしこの日、猟銃を右手に持った福沢は窓を開き、山々の方角を見た。

 原付バイクを走らせ、市街地を抜け、タージマハルの脇を通り、閑散としたゴルフ場を横目に山道を上がって行くと風が冷たく感じるようなった。舗装されていない脇道に逸れるとバイクがガタゴト揺れて、スリップしかけたが、行き止まりまで来てバイクを降りた。その先はススキが辺り一面に生え、風が吹くとザーザーと音を立てている。福沢はたった一人どこかに取り残された気がして、急に不安になった。けもの道がずっと先の山の方まで続いている。空を見上げると鷹が旋回を繰り返していた。猟銃の重みをずっしりと背中に感じる。不安を横にけもの道を進んで行くと、右足が地面に沈み、靴の中に冷たい泥水が入る。「びっくりした」と福沢はひとりごちた。いつの間にかススキの草原は、葦の沼地に変わっていた。沼地に沿って歩いて行くと、突然急な斜面に変わり、何本もの高い杉が日を遮り、辺りは薄暗くなった。斜面にはシダが生い茂り、登ろうとすると足が滑った。仕方なくここでイノシシを待つことにした。
 1時間はじっとしていただろうか、もう諦めて帰ろうというその時、人がこちらに歩いてくるようなガサガサと草木を踏みしめる音が近づいてきた。福沢は息を殺し銃を構えた。ここよりもさらに斜面の上の杉の真下を大きなイノシシが4匹のウリボウを引き連れて歩いて来た。福沢は息を飲んだ。親のイノシシに狙いを定め引金を引いた。「ばーん!」銃声が山々に響き渡る。銃口から煙が昇った。イノシシは猛烈な勢いで逃げて行った。「また外した!」福沢は言った。

 時々、鳥の甲高い鳴き声がしたが、辺りは静まり返っていた。日も落ちかけて薄暗くなってきたので、福沢がオレンジのベストに薬莢をしまっているとイノシシが歩いていた辺りにガサガサと草木を踏みしめる音がする。はぐれたウリボウが親の匂いを嗅いであとをついてきたのだ。銃に弾を込め、笹の茂み辺りに狙いを定めた。今度は自信を持って引き金を引いた。「ばーん!」轟音が響き渡った。
「痛てっ」と声が聞こえた。
最初は空耳かと思ったが、今度は「誰か来てくれー!」と声が聞こえる。福沢は青ざめた顔で斜面を登り近づくと、杉の裏側に右足から血を流した男が倒れていた。男は、黒いスカートに黒い網タイツを履き、ピンク色のニットを身に着け、頭には金髪のカツラを付けていた。出血した部分は弾がかすめた程度で、傷は浅い。福沢は着ていたシャツを脱ぎ男の太ももを縛った。男の顔が痛みで歪んだ。
「こんなところで何をしてるんですか!」と福沢は言った。
「色んなものから逃げているのよ」男は言った。

 「ちょっと手を貸して」男は福沢の方にその細い腕を差し出した。福沢がその手を握り立たせると、男は福沢の肩に手を回して言った。「お願いだから病院には連れて行かないで。あなたの家に行って、さあ」「病院に行かないって、じゃあ自分に手当しろって言うんですか」「だってあなたがわたしを撃ったんじゃない。当然の権利よ」「しかたないなあ、あんなところにふつう人なんていると思わないでしょ」
福沢が男の片腕をつかむと男は福沢に半分体をあずけ片足で歩き出した。沼地の横で強い風が吹いて、男の金髪のカツラが宙に舞ってぬかるんだ道に落ちた。男は「あっ」と言って、しゃがむと泥に浸かったカツラを手に持った。男が時々声を上げ、福沢は立ち止まらなくてはならなかった。20分ほど歩くとススキ野原を抜けてバイクを停めてある空き地まで戻ってきた。福沢が原付を跨ぐと、網タイツの男も後ろに乗った。「警察に捕まりませんように」と男は言って、福沢はエンジンをかけると山を下って行った。対向車が何台も驚いた顔で二人を見る。男の大きな右手は福沢の肩をしっかり掴み、左手は風になびく金髪のカツラを飛ばないように押さえている。結局福沢の家まで警察に見つかることはなかった。

 福沢は家に着くと、風呂場に男を連れていき、男の網タイツを脱がせ血が流れている右足の傷口をシャワーで洗い流した。「痛い!」と男は言った。血は男の足を伝って福沢の足元でシャワーの水と交じり滲んでいる。「今、マキロン持ってきますからちょっと待ってて下さい」福沢が男の処置をしているあいだ、男は何も言わずうなだれていた。
「あなた優しいわね。こんな私みたいのに優しくしてくれるなんて。私は鈴木。あなたお名前は、今いくつなの」鈴木が訊いた。
「福沢です。俺二十三ですけど、ちょっと消毒しますから滲みますよ」
「やっぱり。若いうちだけよ。そう人に優しく出来るのは。そのうち色眼鏡が出来てくると、あいつは優しくしよう、あいつはやめとこうってなるんだから。痛て!」
「だから滲みるって言ってるじゃないですか!」
男をベッドに寝かせ、どうしたものかと考えあぐねていると、「ふくざわちゃーん、ちょっとお腹空いてきちゃったんだけど。何かコンビニで買ってきてくれないかしら」と鈴木の声が部屋から聞こえてきた。「ずいぶん元気になるのが早いなあ。いいですけど、何がいいですか」福沢が訊いた。「鍋焼きうどんとお茶、あと新聞もついでに買ってきてちょうだい」鈴木は新聞の見出しに自分の記事が載っているかを気にしていたのだ。

最後の太陽が山の向こうに落ちようとするとき、郵便局の白い建物は赤く照らされている。中村さんは店のシャッターを閉めながら言った。「もう1週間は経つのに鈴木さん来ませんね」
「何度電話しても出ないんだあいつ。もうこのまま辞めるのかな。八年も一緒にやってたのに、こんな辞め方ってないよな」黒須は言った。
「残念ですね。じゃああの件は警察に?」
「もうこれ以上は引き延ばせない。残念だがね。あいつの履歴書ってまだうちにあるよな?」
「ええ、おそらく」
「警察に住所知らせとくか、一応。まさかこんな事がこの田舎の郵便局で起こるとは思わなかったよ。このまま俺も中村さんも、鈴木も年取っていくもんだと思ってた」
「私もそう思ってました」と中村は言った。黒須は帰り道、田んぼのあいだの農道から空を見上げると月が浮かんでいたが、どこからか黒い雲がやってきて月を隠してしまった。

福沢がコンビニから戻ると鈴木はベッドに座り直し、窓から曇った夜空を見上げていた。鈴木には夜空の方も鈴木を見返し、愚かな過ちをせせら笑っているように思えた。鈴木は急にすべてのものから切り離されてしまった気がして孤独になった。
「すずきさん買ってきましたよ、うどん」福沢はガスコンロでうどんを温め鈴木に持っていってやった。
鈴木は鍋焼きうどんをすすりながら、目に涙を溜めていた。
「体が温まるわ。あなたシェフなの?そこにコックコートみたいのが引っかかってるけど」鈴木は椅子にかけられた服を指さした。
「そうです、それでジビエ料理でイノシシを使うから撃ちに行ったんです。俺ここの人間じゃないから、あんな山の中にいるのは恐怖でしかなかったですよ」
「それはそうだわね。あんなところ地元の私だっていやよ」
「じゃあなんであんなところに」福沢が尋ねた。
「あなた好きな人っているの」鈴木は言った。
「遠距離恋愛の彼女がいますけど」
「そう、それならその彼女を大事にしてあげなさい。最初はみんな思うのよ。この人を大切にしようって。でもそんな気持ちは長続きするはずがない。人は忘れていくものなの。だからその時、その瞬間の彼、彼女を愛するしかないんだわ」
「まだ付き合ったばかりで、そんな深いことなんて考えてたこともないんです」
「大丈夫いつかわかるから。その愛にしがみつくように生きなければきっとあとで後悔するわよ」
「わたしは大切な人を失ったわ。彼は、結局女を選んだのよ。しかも私の知り合いの女」
「海外から毎月その女に荷物が届くの」
「きっと彼は自分の子供が欲しかったのね。もう生きるのがしんどいわ」

鈴木の滲んだ黒っぽいアイメイクが涙とともに頬を伝った。

 鈴木にベッドを譲った福沢は、床に布団を敷いて、しばらく川の音を聞いていた。鈴木は静かな寝息をたてている。福沢も鈴木の寝息の規則的な音を聞いているうち眠りに落ちた。
ベランダに出て上を見上げるとガラスの天井があって、そこをイノシシが歩いている夢を見た。

 翌朝、鈴木は部屋の窓から色づいた山々を見ていた。ソファに座ると、空き缶やリモコンが散乱したガラステーブルの上に熱いコーヒーを置いた。その音で福沢は目が覚めた。
「おはよう。ふくざわちゃん、よく眠れた?」鈴木が言った。
「鈴木さん早いですね。コーヒー勝手に飲んだんだ。まあいいですけど」福沢は言って目を擦った。かつらを脱いだ鈴木の髪は短く、黒いTシャツを着た姿はどこにでもいる中年男性だ。スカートやピンクのニットは几帳面に枕元に畳まれて置かれている。「足の傷はどうですか」福沢が言った。
「なんとか血は止まったみたい。ちょっとずきずき痛むけどね。昨日のあなたの看病のおかげ。素敵だったわよ。惚れちゃったみたい」
「いやいや俺彼女いますから!」
「私の心は彼のものよ。うぬぼれないでちょうだい」と鈴木が言った。
「それで、これからどうするんですか?」
「海が見えるどこかで新しい人生を始めようと思っているわ。そこは過去も未来もない、ただ窓辺からの太陽が家の中を暖めるようなところ」
「その前に始末しなければならないものが家にあるの」鈴木は立ち上がり片足を引きずりながら玄関に歩いて行くと扉を開けて「今までお世話さま、じゃあまたね」と言って扉を閉めた。

 昼間の閑静な住宅街は人通りが少ない。鈴木がそのタイミングでアパートに向かったのは誰にも見つからないように戻るつもりだったからだ。アパートの部屋には今まで郵便局から盗んで来た手紙の束や、プレゼントの数々があり、処分するために来た。アパートの階段を上りきったところで、鈴木の部屋の玄関の前に3人の人影があった。黒須と佳織と警察が玄関で待ち構えていた。
「ちょうど現れましたね。首を長くして待ったかいがあった」警察官が言った。履歴書の写真から鈴木の顔は覚えられていた。
「鈴木圭太さんですか?」
「ええ、そうですが」鈴木は覚悟を決めた。これで終わった。
「実は窃盗の容疑でうちに話が来てまして、あなた郵便局に勤めていたということで間違いないですか」
「そうです」
「ではこちらの方もご存じですね」
「上司です」鈴木は黒須の方を見た。
「こちらの方は」警察官が訊いた。
「高校の同級生です」
「なるほど、分かりました。お二人から話があるそうです」
「お前まずその格好はなんなんだ。そこから説明してくれないか」黒須が言った。「実は私ゲイなんです」鈴木が言った。「ちょっと頭の整理がつかないんだ。ゲイってことは男が好きってことか」黒須が尋ねた。「ええ、そうなりますね」鈴木は自分のスカートと網タイツを見て、ふたたび三人を見た。「そうか」黒須が呟いた。佳織は青ざめた顔で鈴木を睨みつけた。「あなたが、夫のわたしや子供に宛てた手紙やプレゼントを全部盗んでたの?」佳織が言った。鈴木は何も言わず目をそらした。
「ああ」鈴木が言った。
「悪いけどお前は何も知らないんだ。お前があいつと付き合う前のこと。俺たちが付き合ってたってことを。俺たちの前にお前が現れるまで俺たちがどんなに幸せだったかを」鈴木の頬はこけ、瞳の光は消えていた。
「そんなこと二人を見てればうすうす感じることよ。二人がゲイだってことくらい。でもだからって、あんな子供じみた事してなんになるの。私は夫を愛していて、夫も私を愛しているのよ」
「俺たちはそれ以上だった」
「つまりお前がぶち壊してしまったんだよ俺の人生を!」鈴木が言った。
「だからって人様のものを盗むなんてかわいそうな人」佳織が言った。
「鈴木、お前の私生活に立ち入ることは出来ないが、それでも何か俺に言うことがあるんじゃないか」黒須が言った。
「支店長申し訳ございませんでした。店に迷惑かけて、あんな馬鹿な事して二人の顔に泥を塗ってしまった」鈴木は頭を深々と下げた。黒須は眉間に皺を寄せ、苦い顔をした。
「まあ実は今回お二人はあなたのことは提訴しないということで考えられているそうですから」警察官が言った。
鈴木は肩の力が抜け、二人を見た。「そんなことしなくたってかまわないのに!」鈴木は立ち尽くした。「お前の行為は許されることではない、それでも時に人は許さないといけない時があるんだろう」黒須が言った。「私にとってあなたを許すことは並々ならぬ努力がいる事なの。それを忘れないで欲しい」佳織が言った。
「俺を逮捕しろよ!」鈴木が言った。
「もうそれくらいにして下さい。せっかくのチャンスをふいにするつもりですか」警察官が言った。
鈴木は壁にもたれかかった。

一週間後、鈴木は黒須の恩赦によってまた郵便局で働き出した。
鈴木は窓口で客からの郵便物を受け取りサイズをメジャーで測ると、宛名を見てその人の喜ぶ顔を想像した。しかし鈴木の脳裏には事件のことが浮かび暗い気持ちになった。「それではお荷物は120サイズになりますので、料金は800円になります」鈴木は言った。客は一瞬鈴木の方を見て、驚いた様子だったが、すぐ取り直した。「それじゃあよろしくね」老婆が杖をついて出ていった。隣の席の中村が言った。
「鈴木さん、そのウィッグ似合ってますね、素敵。今度は金髪じゃなくて黒にしたんですね」薄くメイクをした鈴木の顔はほころんだ。
「ありがとう、男の印象が強くてまだ見慣れないわよね。もう少し我慢してね」「支店長どうですか。似合いますかこの髪型?」鈴木が言って、後ろの席を振り返った。「ああ、いいんじゃないか。時代だな」と黒須は言った。「鈴木そういえば午前の配送行ってくれるか」
「はい、もちろん」鈴木はスカートからズボンに履き替え、午前中配送分の荷物をバイクの荷台に入れるとバイクに跨り走り出した。
山をバイクで走ると、切通の上の方にせり出した紅葉する木々がその葉を散らしている。鈴木は湖畔の脇を通る時、思わずバイクのエンジンを止めた。小さな湖畔の岸辺の落葉樹の赤や黄色が水面に反射し光がゆれている。

その日の夜、鈴木は仕事が終わると「シェ・アミ」へ向かった。あの日以来福沢には会っておらず、急に顔が見たくなったのだ。
鈴木が店の窓の外側から店内を見るとレジやテーブルにハロウィンの飾り付けがされていた。「1名様ですか」女性スタッフが尋ねた。「ええ」鈴木が言う。女性の後について店に入りテーブルに着くと女性は水の入ったコップを置き「ご注文お決まりになりましたらお呼びください」と言って立ち去った。注文を取りに来たのはコックコートを着た福沢だった。「あれっ、誰かさんかと思ったら鈴木さんじゃないですか」
「久しぶりじゃない。元気そうね」と、鈴木は言って微笑んだ。
「料理はお決まりでしょうか」福沢は訊いた。
「そうね、このイノシシとフォアグラのパテと赤ワイン」鈴木はメニューを閉じた。「かしこまりました。イノシシですね」と福沢が言って笑った。
しばらくすると矢野が料理を運んできた「お待たせいたしました。イノシシとフォアグラのパテと赤ワインでございます」矢野は料理を軽やかに持つと滑るようにテーブルに置き、ワインをグラスに注いだ。「テイスティングはされますか」矢野は訊いた。
「いえ結構です」鈴木は矢野の目を見つめながら言った。「それでは失礼します」矢野は子供っぽい笑顔を浮かべ言ってレジの方へ歩いて行った。
福沢がテーブルの脇を通るとき鈴木が強引に引き留め訊いた。「ちょっとあの人誰」「あー、あの人ですか、あれは店長の矢野です」「いい男よね。あとで紹介してくれない」鈴木が言った。「矢野さんはゲイじゃないですよ」福沢は口元をほころばせた。
「人を愛するのにゲイかゲイじゃないかなんて関係ないのよ」

ハロウィンの飾りの電球がテーブルの上のグラスに温かい光を投げている。

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