人間について不思議に思うこと

今日はですます調で書いてみます。
当たり前ですが、皆さんは現実の世界を生きていますよね?自分自身が虚構の存在だとか、伝説や空想の産物だと思っている人は珍しいと思います。ところがどうも、現実に対する認識と、実際の現実にズレがある。自分で思っている自分の人生と、周りから見た自分の人生にはズレがある。そういう人は多いはずです。自分の主観が間違っていて、他者から見た自分の方が客観に近いと言うつもりはありません。
私は最近、本当に現実を見て生きている人っておそらくほとんどいないのではないかと気付いたのです。極端でしょうか?でも、私にとってこの感覚はすごくはっきりとした現実味を持ちました。そして気づいた時に、恐ろしさのあまりゾワーっとしたのです。
もうすこし具体的に説明しましょう。根拠って言葉を知っていますか?根拠です。馬鹿にしてるわけじゃありません。エビデンスとか言う人もいますが、物事の理由など、よりどころです。そう考える根拠は?と聞かれたら、考えた理由とか、その考えに至るまでに得た情報、それらをどう整理して解釈した、結論を出したのかを答えると思います。なんだか難しい。
さて、実際問題、人が生活する中で、すべての行動や考え型に根拠を持たせることなどできません。日常生活で取る行動、喋ること、考えること、意思決定、逐一全て根拠を説明しろと言われても無理です。
中国に故事に、ムカデがたくさんの足をあやつって器用に歩くことに感心したひとが、ムカデに歩くやり方を説明してもらおうとすると、ムカデは頭がこんがらがって歩けなくなっってしまったという話があります。ムカデはいいんです。歩くだけなんだから。
人間はもっと複雑です。社会も複雑だし心も複雑だから頭を使わなくちゃいけない。それ故に、全てに頭を使っていては疲れてしまいます。疲れないために無意識に処理する物事を増やします。考えるところと、考えないところがある。そして、人によって考えるのが得意な分野が違うから、分業して自分が考えるのが苦手な分野は誰かに考えてもらって生きています。人間の世の中では常に、誰かが何かを考えている。そしてもっともらしい考えとか、多数派の意見が世間の常識となります。「世間の常識」は自分が考えるのが億劫な人には便利です。誰かが、代わりに考えてくれた思考をそのまま自分にコピーして無意識に処理します。このように、代わりに世間の誰かが考えてくれたことを全部コピーして自分のものにしていさえすれば、下手をすると、自分では何も考えるということがないままに一生を終える人だっているんです。世間の大多数の常識って便利です。大多数の人に当てはまるし、いかにももっともらしいから、どんどん自分に当てはめても不都合を感じにくいのです。それを自分のものにしている限り、おまえ、変じゃない?って言われにくいですから。
政治、経済、思想、道徳、あらゆる話題が世間の常識に支配されています。
ですが、根拠は世間の常識でしょうか?ただ便利だからという理由で?不都合を感じないからという理由で?それが根拠になりうるんでしょうか?そうではないはずです。
便利だから、楽だからと使っている便宜的なもの、それが世間の常識です。不都合がないならそれでいいのですが、実際に不都合が存在しないのと「不都合を感じない」のは全く別の物事です。不都合を感じないのはあくまでも、主観によるもの、思い込みかもしれないのです。
それこそが不都合ではないでしょうか?
みんなが、大多数が便利に使っているからこそ、「おまえ変じゃない?」って言われることこそが最大の不都合であると認識される。根拠を洗い出したり、そういうことは二の次になってしまうのです。エビデンスとか証拠、もっともらしい理由は提示されるでしょうけど、あくまで表面状のもの。誰が意見を言っても最初から結論ありきで後付けで理屈をこねるだけ。そしてみんな、なんとなくそういう単調さには飽きているから革新的な、真新しいものを求めてはいる。だけど、どんなに奇をてらってみたところで同じこと。ドングリの背比べ。便利な世間の常識に頼って離そうとしないから、飛び抜けたことをやろうとしても世間の常識の延長線にしかないのです。そして、ちょっと延長した部分にあるもののうち、大多数が選んだものが新たな流行になります。それは空気です。雰囲気にすぎません。
私が言いたいのは、世間の常識に逆らえ、ということではありません。「逆らう」という動作そのものが既に世間の常識を根拠にしているではありませんか。鏡にうつして反対をやろうとするのはなぞっているのと同じことなのです。そうではなくて、根拠が置き去りになっていませんか?ということです。
あとづけの理由をなぞるようなエビデンスや証拠ではなくて、そもそも本当のところは?ものごとの本質とは?そのような視点もなくエビデンスや根拠を述べることは不可能なのです。本質とは絶対に外せない、ものごとの筋です。シャーロックホームズが犯人を捕まえる際には誰が被害者なのか、犯人は何のためにどういう行動を取ったかを間違えないからこそ解決に至れます。本質を見極めるのはめんどくさいことが山ほどあります。現実に転がっている小さな事実を集めてつなぎ合わせて仮説を立てたり、あるいは逆に、立てた仮説をもとに、もしそれが本当だったらどんな証拠が残っているかを探します。このようにして、最初は無数の可能性であったいくつもの仮説が、現実に転がっている事実によって振り分けられ、絞られてゆくのです。地道でめんどくさい作業ですが本質を見極めるには必要です。便利なものにしがみついていては決して見えません。もっと能動的に、自分自身を事実の中に引き寄せていくのです。現実を自分にあわせるのではありません。
君は見ている、しかし観察していない。この言葉の意味がはっきりしたところで話を戻します。あなたはどこまで現実を見て生きていますか?誰かが自分の代わりに考えてくれたことを自分の考えだと思っていませんか?それは本当に根拠がありますか?どんな本質を捉えた上で正しい根拠であると判断しましたか?
質問ばかりですみません。答えにくいですよね。だけど、そういうことです。誰か、自分より頭のいいと言われている人が考えた根拠だから正しい?だけど、自分がそう考えたからと言ってもそれは根拠じゃありません。自分より頭のいい人が主張していることをどうやって本当か嘘か見分けられますか?自分の頭が追いつかないようなすごいことを考えている人がいたとして、どうやって自分は、その人がでたらめじゃないと見抜けるのか。あなたはその人に頭が追いつかないのに。専門家、専門知識、自分が専門用語を知らないのにどうやって専門家がデタラメじゃないと見抜けるのか。無理です。相手が全くのデタラメで、仮に、あなたを騙そうとしていても全く無策、無力なのです。
だから、見分けようと思ったらある程度は自分で専門用語を学ぶしかありません。全ては不可能ですが。ある程度、専門家が言っている意味をつかめるようになったら、今度は本質は何かを考える。物事の筋道です。ある事実とされていることが事実ならば、別な事実と矛盾する点はないか、その事実を裏付ける根拠はないか、そういうことを繰り返していけば、にわかの知識でもある程度までは頼っていい専門家なのかを見抜けるでしょう。
根拠とは、そのようにして深めていくものなのです。誤解されては困りますが、全てのことに根拠を追求しろと言っているのではありません。そんなのは不可能です。そうではなくて、人間とはいかに現実を見ていないか、本質を忘れている生きものなのかを再確認していただきたいからです。
でも大丈夫。現実を見ていなくても、誰かが代わりに考えてくれたものを現実だと思って生きていても、ちゃんと人間ってのは生きていけてます。だけどもし、世の中に対してとてつもない不安や不満、違和感を感じるようなことがあれば、ぜひ、私が書いたことを思い出して、現実を探っていってください。漠然とした不安を一個一個の確実な現実に変えてゆく力があれは恐ることはありません。変な空気や、雰囲気に支配されることがなくなってもっと生きやすくなるでしょう。そして、あなたが掘り当てた現実をまた別の誰かが自分のものにコピーするかもしれませんが、現実の掘り当て方だけは人間の社会から忘れ去られないで欲しいものだと思います。

最後までありがとうございます。

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