ショートショート/象と原始人
その象は大事な我が子を殺されて怒り狂っていた。マンモス、マストドン、ナウマンゾウ、地球上にはかつて数え切れないほどの象がいた。それはことごとく人類によって食われ、滅びていった。私たちの町、今や地下鉄やバスが走るそのただ中にも、かつては象が歩き回っていたのだ。
いつの頃か、定かではない。今となっては種類もはっきりしない象が、もう吹雪の中、1人の原始人を追いかけていた。その原始人は村で、狩りの名手と呼ばれていた。その彼も、たった1人で象に挑むことは困難であった。山のような象は一点に狙いを定め、突進してくる。
グオオラアウ!
恐ろしい雄叫びが、吹き荒ぶ寒風をつんざき、震わせた。原始人は眉1つ動かさず、雪の中を走っている。逃げながらも反撃の機会を伺っていた。手に持った槍はよく切れる黒曜石がはめ込まれている。大きな手で握り締めた柄は、100年かけて成長した丈夫なイチイの枝でできていて簡単に折れることはない。この槍は、これまで数多の象やサイ、角の生えたラクダなど、大型の野生動物たちの血を吸ってきたのだ。
だが彼は今、2つの意味で命の危険に晒されていた。1つは荒れ狂うメスの象、もう一つは、雪で見えないがこの辺には大きなクレパスがあるはずだ。落ちたらひとたまりもない。数年前に子どもの象を仕留めた場所に近かったので覚えていた。
しまった!
突然、巨大な雪の壁に阻まれ、原始人は動きを止めざるをえなかった。大きな雪の塊は、つい最近、斜面から落ちてきたものだろう。氷期が終わりにさしかかると、氷河は溶け出し、このように危険な環境を生み出してしまう。象は追撃の手を緩めずに突進してくる。象は逃げる隙を与えず、原始人を雪の塊にめり込ませた。これがもし氷河だったらひとたまりもなかったであろう。
象と原始人はもつれあって急な坂を滑り始めた。原始人が気を失いそうになりながら薄目をあけてみることができたのは、あのクレパスだった。このままでは象も原始人も落ちて死んでしまうだろう。それに気づいた象は4本の足をブレーキにして踏みとどまろうとした。滑る速度は遅くなっていく。断崖のギリギリで止まった。
原始人は落ちた。
死にものぐるいで崖の淵に刺さっていた何かにしがみついた。上では怒り狂った象が、原始人をこのまま落としてしまおうと、長い鼻を振り上げていた。しかし、突如、動きを止めた。
原始人がしがみついているのは、我が子の骨だったのだ。不意に、深い感情が、過去の記憶が、溢れ出てゆく。まだ幼い子象を連れて歩いた平原。食べられる草や地衣類を教えたり、沼にハマった子を助け出した頃の思い出がいっぺんに降ってきた。そして締め付けられるような甲高い声で彼女はいなないた。
原始人はハッとした。もしかすると、この子象の骨には見覚えがある。するとあの凶暴な象は母親か。氷の崖に突き刺さった骨に片手でぶら下がりながら、もう片方の手には槍を握り締め、原始人は、這い上がる手がかりを探した。他にも子象の骨が埋まっているが、足場にするには小さすぎる。
なにを思ったのか、原始人は片手に持っていた槍を手放した。槍は深い亀裂の中に吸い込まれた。そして彼は子象の骨の一つを崖の上めがけて放りあげた。そしてもう1度。そのたびに母象はそれをしっかりとキャッチした。
もう1つ、また1つ。子象の骨が崖の上に積み上がってゆく。母象は下を覗き込んだ。今にも落ちそうな小さな生き物が見えた。その1本の大腿骨を氷の壁から引き抜くと、原始人と一緒に鼻でしっかりと掴んで上まで引き上げた。
助かったのか?
呆然とする原始人を前に、母象は血走った目を虚にして、静かに体の向きを変えた。そして、その骨の1本を掴んだまま、ゆっくりとした足取りで雪原の中に消えていった。
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