幽霊について

幽霊について書こうと思う。私自身、特別、何か見えたり聞こえたりするわけではないし霊感はない。しかし子供の頃は何かいるような気がしていた。“気がする”という状態ならば何度か経験がある。一度、暗がりの中にいると思ってしまうと厄介なもので、たくさんの見えるような、でも見えない者たちが自分にまとわりついてくるような気がしたものだ。次第に私も学習して、そういう、見えるような気がする時は無視を決め込んだり、気にしてないフリができるようになった。そうすると不思議と“いるような気がする”が無くなっていた。
さて、今私がしているのは、実際に幽霊をスルーするスキルの話ではない。“いるような気がする”という感覚をどう処理するかという、気持ちの問題である。実際に幽霊がいるのかと言えばなんとも言えない。神を信じますか?と同じく、あまり意味のない問いかけのような気がする。目の前にいたら信じるのだが、困ったことに幽霊には実体がない。ここへ連れてきて、これがそうだよ、と説明することができないわけだ。だからと言って、幽霊は全て気のせいだと断定することもできない。そういう、よくわからないものって世の中にはたくさんある。
いくら科学が進んだとて、この世の全てを説明することなど出来はしない。人間が目で見たり、目で見えなくとも観測したり測量したりできる、触ったり、あるいは管理したりできる範囲でもっともらしい説明を求めるにとどまっている。科学の進歩には技術の進歩が欠かせない。応用科学という、富を生み出すことのできる分野があって初めて科学に資金や人材が投入されるわけだ。そのため、科学には人間の目に見える範囲のことしか扱えない。
一方で、ミクロの分野や宇宙や物理学などに至ると、人間の目には見えないものごとを扱っている。ちゃんとした科学者もいるが、オカルトにはまり込んでトンデモ理論を連発する人もいる。数学とか数式とか、素人にはさっぱりわからないものを利用して、あーだこーだ言ってるので、嘘か真か、見分けがつかない。アインシュタインが天才だと言われても、素人である私には、彼を評価できるほどの頭脳を持たないわけだ。アインシュタインをしきりにほめそやし、偉人と称える人々の何パーセントくらいが、彼の頭脳を評価できるだけの頭脳を持っているのか、非常に疑問である。だいぶ話が逸れた。

ともかく、不確かなものはこの世に満ち溢れていて、その不確かさの中で私たちはあーだこーだ言ってる。わかるはずのないことを断定して「幽霊は絶対いるよ!」という人もいれば、「いないよ!科学の時代に何を言う!」と主張する人もいるわけだ。そして頼みの綱であるはずの科学、観察と考察、仮説と実証、確かなデータの積み重ね、そういう一番確かであって欲しいものは素人には理解できない。一部の知識を持った人々が誰かの論文を読んで、本当だ、嘘だ、と評価しているのだ。

さて、ここで幽霊の話に戻ろう。応用科学、科学技術、そういう、お金を稼ぐのに役に立つ分野は発展しやすいと先に述べた。幽霊はどうだろう?除霊や供養など、昔からたくさんの商売が行われてきている。幽霊はお金になるのだ。なんて言ったら幽霊さんに失礼かもしれないが(こうして私が書いてる間にも血走った目で見ているかもしれない…)ともかく、お金になる分野なのだとしたらもっといろいろ解明されていても良くはないかと思うのである。
ところが残念ながら、幽霊について確かなことは現状、わからない。
というか逆なのだ。そもそも幽霊さんの売りは、よくわからないということにある。よくわからないからこそ、たくさんの人々が様々な方法で幽霊に対処するビジネスを行えるのである。もしも仮に、幽霊がいないということになってしまえば、実にたくさんの霊媒師が失業する。逆のパターンでは、もしも全ての幽霊が可視化されるようになれば不動産業者は商売上がったりだ。(最初から幽霊がいるとわかってる物件が売れるわけはない)

つまりは、多くの人にとって?幽霊というのはよくわからないままが良いのである。私が考えるに、幽霊の存在の有無が証明されて唯一、いいこととえ言えばこれだ。霊感商法というのがある。目に見えない不確かなものを利用して、ガラクタを売りつけたり、洗脳して金を吸い取るのだ。そういう悪どい商売は無くなりそうだ。でもダメか、やっぱり詐欺師たちは別なやり方をすぐに見つけるだろう。

科学技術という、結果が確かに目に見える形であらわせるものと、霊感という不確かなもの、なぜか両方とも金になる、これって不思議なことだ。そして科学者にもちゃんと論文書いている人もいるしマッドサイエンス的な人がいる。霊能者にもちゃんと仕事してる人もいるし、嘘や出まかせでアコギな商売している人もいるってことだ。

でも、結局素人だからわからないや。話半分以下に聞いとこう。手に取れる範囲で、目に見える範囲で私たちは生きていくしかない。

でも、見えちゃったら?聞こえたら?その時は精神科の出番なのだろうか?精神科の医者が異常か正常かを判断する基準は日常生活を送れるかどうかになってくる。車の運転中に幻覚が見えたり視界が遮られては危険だし、錯乱して誰かを傷つけては危険だ。つまり、日常生活を送れなくなるほどの支障が出ているかどうかで判断している。だから、「見えるような気がする」「あの時見えた、感じた」その程度であまり再現性も持続もしない感覚は、グレーな、ほとんどホワイトなものとして処理される。

要は幽霊がいるかいないか、そんな話には全く意味がないのである。私は幽霊が絶対にいると断定する人も、絶対にいないと断定する人も信用しないことにしている。それにしても、霊感がある人にとって現代社会の精神病とか統合失調などの概念は遭遇した話をする時に実に不都合だ。他人に幽霊が見えた話をする時、精神病を疑われるリスクを考慮しなければならないのだから。私なぞははまだ気のせいで済んでいるので人に話すようなものは何もない。

しかし、見える人は自分の感覚くらいは信じてもいいのではないか?断定もせず、否定もせず、感覚だけは確かに持っておきたいものだ。それがその人の人間らしさにもつながっているかもしれないからだ。
だからと言って幽霊を積極的に見ようとしたり、強い感情を持ってしまうとどんなリスクがあるかもわからない。下手に同情したり怖がったりしないこと。気にするそぶりを見せず空気と同じように見えなかったフリが私的にはしっくりくる対応だ。別に怖いものではない。気になるなら換気をしたり、スーッ、フーッと長めの深呼吸をしたり、声を出して歌って気分を変えてみるのもアリだ。生きている気を発して自分が生きていてここに存在すること、心がここにあることを確認する。自分は自分である、と境目をハッキリさせることが重要なのだ。

…これはあくまでも気分の話だ。気分は大事。


最後までありがとうございました。

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