もはや神を信じるだけが宗教ではない

私は宗教が嫌いです。オウム真理教事件や、ガイアナのジョーンズタウンでの悲惨な結果、統一なんちゃらの合同結婚など、人の人生を台無しにし、あるいは取り返しのつかない傷を与えたのは宗教です。しかし、中には「良い宗教もある」と言い出す人も居るかもしれません。そういうあなたは、これらの事件ののせいで、宗教に対する世間のイメージが、偏見となって苦しめてきたかもしれません。「神を信じている」と、カミングアウトするだけで、奇異な目で見られたりするわけです。

しかし安心してください。神を信じるだけが宗教ではないのです。知らないうちにこれらの悪質な宗教に絡め取られている人はたくさんいます。その上で、「私は宗教など軽蔑する」と主張するのですからおかしな話です。

それは科学万能主義であったり、全体主義であったりします。

科学は素晴らしい、科学は万能だ。魔法のようにすごいものだ。本当にそうでしょうか?それって科学をなんだかわかっていないんじゃないでしょうか。学説は1つではありません。いろーんな、本当にいろいろな科学者がいて、玉石混交な論文を発表しています。査読、という作業があって、それらの論文を精査して認める人がいます。そして初めて論文となるのです。メディア各社は、その中から、話題になりそうなものを引っ張ってくるだけです。中には、査読前の論文を公然の事実であるかのように喧伝する人がいますが、これは誤りです。本来、世の中に出ていいものじゃありません。金儲けのために、あることないこと書く人がいるのは知っておいた方がいいでしょう。
また、科学的にわかっている事実と、科学技術は全く別物です。いくら技術が進歩しても、それは技術です。科学的なメカニズムが、応用して使えるほどにはわかっているのは確かです。しかし、実のところ、どうしてそれが使えるのか、完全に解明されているわけではありません。今まで信じられてきたことが実は嘘だった、ということも科学では起こりうるのです。あなたは死火山、活火山というのは習いましたか?私の世代ではそれは「実は嘘だった」というふうに習いました。ひと昔前の学説が、ひっくり返される例ですね。
では、最新の学説こそ、正しいのでしょうか?新しいものこそ、その正当性を自ずと証明するのでしょうか?
ちがいますよね。だって、学説は変わるんです。論文の査読のように、出された学説はこれから精査されていくんです。まだ乾いていない塗り立てのペンキのように、うかつに触っていいものではありません。ところが、科学雑誌メディア各社は、最新の情報、最新の科学を求めていますから、査読前の論文にも平気で飛びつくってわけです。

あなたは科学を信じますか?信じるものは掬われるってね。その足元を。

続いて全体主義。みんなが言ってることは正しいですか?世間全体で足並みを揃えなくてはいけないですか?そんなことを信じているあなたは、大政翼賛会や国防婦人会がピッタリでしょうね。戦争という、最も悲惨で人間性を貶める行為をしてきた結果、何が残ったでしょう。足並みを揃えるってのはそういうことです。歴史が証明しています。正しいと思われてきたことが正しくなかったり、蓋を開けてみたらまったく違う問題であったりするのです。

このように、宗教と呼ばれていないけれどその実態が宗教と変わりないものというのは無数にあるわけです。人を動かし、特定の物事を信じさせ、その盲信者としてしまう、それはノウハウとして存在しています。キャッチセールスやマルチ商法、霊感商法など、悪質な方法で人を操作し、金を巻き上げることは、何も新興宗教だけの手口ではありません。そのノウハウはあらゆる場所、あらゆる人が使いこなしています。

騙された人は口を揃えてこう言います。「なぜわたしはあんなことを信じてしまったのだろう」と。自分は絶対、騙されないと思うのが危ないのです。自分では打算的で合理的な人間だと思っていても、本当に口の上手い人にかかれば赤子の手をひねるように操られてしまうのです。

あ、断っておきますが、私は信仰を否定するわけではありません。神を信じるのが騙されることだと言いたいわけではないのです。ある、キリスト教系の学校を出た人から聞いた話ですが、牧師さんに「本当に神様はいるの」と聞いたらしいです。するとうーん、としばらく考えて、この本を読みなさい、と言って、神学系の本を渡したそうです。「いるよ」と即答ではないんですね。また、同級生に、神様はどんなものだと思う?って聞いて回ったそうですが、その答えはまちまち。同じ宗教のはずなのに、皆それぞれ違った神様のイメージを持っていたんです。熱心だからと言って神様を信じているとは限りません。ミサも礼拝も、常に欠かさず行っている人に、神様ってどんなものだと思う?と質問したところ、「考えたことなかった」と言ったとか。

さて、そもそも人類は、キリスト教、イスラム教、仏教、と名前がつく以前から、人々は大自然に異形の念をはらい、先祖の霊に祈りを捧げてきました。それは名前をつけるまでもなく、当たり前のことだったのです。まだその名残は残っています。沖縄には「ウタキ」と言われる神聖な場所があります。限られた人だけが立ち入ることができ、そこで祈りを捧げるのだそうですが、その信仰に名前はないそうです。何の宗教?って聞いても、元から名前などついていないのです。

もう、こうなったらわたしは、本文のタイトルを変えるしかありません。

「神を信じることは宗教ではない」

あるいは

「宗教は神を信じることとは限らない」

と。

人を動かすノウハウや手段とは関係なしに、人間はみな、何かおおいなるもの、あるいは些末なもの、生活を支えるものに感謝したり崇めたりする余地を持っています。トイレにはトイレの神様、かまどにはかまどの神様、とそういう具合に。新年にはかまどの煤払いをやって、食事を支えてくれた道具たちを労います。ガスやIHだって同じこと。いくら宗教が害悪とはいえ、そういう気持ち自体はもっていて自然ですね。

だからこそ、人を動かすノウハウをきちんと勉強し、操られたり騙されないようにしなければなりません。人を動かすノウハウから解放されて、その上で、「自分から」生まれ出た世の中と、自然と、直接対峙するわけです。その上で、神に祈るとか、あるいは神様はいるとは思えないとか、各々の判断をすることができるでしょう。

自分が人を動かすノウハウに絡めとられているか、あるいは自分が見聞きした情報が人を動かすノウハウなのかどうかをチェックする方法があります。

•毎日、毎日、他のことを考える暇もないほどに、特定の考えや情報をしつこく、しつこく見聞きさせられていないか?

•特定の恐怖を煽り人を不安にさせ、その上で、救いの手が差し伸べられると思いきや、なかなかそうはならず、いつの間にか、救われないのはあなたたちのせいだ、と努力や協調、献身を求められ続けてはいないか?

•その救いの手、あるいは予言や未来予知、もしくは「世の中こうなります」という経済学者などの見立ては、外れたり、先延ばしになっていないか?

•この先の未来に起こりうることを、いくつもいくつも、膨大な数、見聞きさせられていて、しかもそのどれかは的中し、どれかは外れたりはしていないか?

•献身や協調を常に求められ、自尊心を奪われ続けていないか?

•特定の何かに対して怒りや憎しみを感じさせる情報を長時間に渡って見続けていないか?

•人に不安を感じさせる情報の後には必ず、なにかを買わせたり、ある行動を促したりするような情報が含まれていないか?

•何か変なこと言っている気はするけど、美人だし、イケメンだし、どうでもいいわって思ってないか?

•ある1つの行動を推奨するために、いくつもの理由が提示され、その行動をとるべき理由とされるものは次々と変化して行ってないか?

•何の脈絡も無しにいきなり特定の考えや思想をねじ込んできているエンターテイメントやコマーシャルはあるか?

•また、朝から晩までひっきりなしにそういうものを見聞きしていないか?

他にもあるかも知れませんが、上記のような状況が長く続いている人は、病気でもなんでもこじつけて、そういうもの、場所、人や団体から距離を置いてみることをお勧めします。精神的な休息は、健康的な生活には不可欠です。

あなたの人生が実りあるものになることを祈っております。

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