ドンキホーテの魅力

私が常にバイブルとしている小説がある。そのタイトルはズバリ『ドンキホーテ』
最近では鬼才テリーギリアムも映画化しているほどのベストセラー作品。もちろん見たよね?観てない人はDVDを借りてきて欲しい。タイトルは『テリーギリアムのドンキホーテ』

小説の方はスペインの作者セルバンテスによって書かれた。セルバンテス自身、波乱万丈な人生を歩んでいる。なんと、外国に捕まって捕虜となって囚われている最中に書いたらしい。

物語の内容はほとんどの人が知っている通り、地方のちょっと経済的にゆとりのある紳士が夜も昼もなく騎士道物語を読みふけり、正気を失って、自分こそは世界を救う遍歴の騎士であると思い込んでしまう。そこから始まる勘違いとドタバタの連続が最高に面白い。従者としてついていくことになったサンチョパンサという農民との掛け合いも見事である。サンチョパンサは、ドンキホーテとは違って学もなく、平凡な暮らしをしているのに、かなり物の道理がわかった人である。「それだけ賢いならなぜ気の狂ったドンキホーテについていく!」と突っ込みたくなる。

私がドンキホーテに惹かれ、その小説をバイブルとまで思っているのはやはり、自分自身がドンキホーテにそっくりだからだ。私は子供の頃から、すぐに観た映画や読んだ本に影響されやすい。恐竜の出てくる映画を見れば、紙粘土で恐竜の模型を作ってインスタントカメラで撮影して恐竜の島探検記を自作した。アクション映画を観ては高い塀の上から飛び降りたり乗り越えたりしようとした。メアリーポピンズを見て傘で空を飛ぼうとしたこともある。

しかし、私はそれらを虚構だと分かった上でやっていた。…半分くらいは。
(子供の頃なので許してやって欲しい)

一方、小説のドンキホーテは虚構をリアルに!本当のことだと思ってしまった話だ。現代のRPGゲームのように、架空に過ぎない騎士道物語を現実だと思い込んでしまうとはどういうことだろう?「どういうこと」というのは別に設定やストーリーに対してではなく作者、セルバンテスの思ったことについてである。

ここからは完全に私の想像である。

ドンキホーテが何故、これほど多くの人の胸を打つのか、それは、ある種のカタルシス、自分とも似たような部分があることの証明ではないかと考える。人間誰しも勘違いをしていることは多々ある。子供の頃から言われてきたこと、気がついたら何の根拠もなく信じていたこと、そういうものは皆、あるのではないか。サンタさんは本当はいないとか、そういうことにある日気がついてしまう。親がサンタさんで逆に安心した人もいるのではないか?てか普通に親からもらった方が嬉しくないか?

それならまだ良いのだけど、強い思い込み、その思い込みの度合いによっては、なんて自分は今まで馬鹿だったんだ、人生を無駄にしてきたんだ!と嘆く。しかし、同時にそれは気持ちの良いものでもある。自分自身にまとわりついていた不要な足かせが取れて解放され、余計なものを取り去った素の自分になれるのだ。

だが、実際問題、私たちは意図的にドンキホーテになる事はまず出来ない。悪をくじき、世に正義をもたらすヒーローになろうとする前に、必ずぶち当たる問題がたくさんある。遍歴の騎士になって冒険の旅に出たとしよう。まず、お腹が減る。それから宿の心配をしなければならなくなる。おそってくる疲労、病気。小説の中のドンキホーテもそうで、常にそう言った現実的な問題に悩まされているのがなんともリアルだ。

そういう極限に追い込まれた時、崇高な理想をかかげる人間も、理論的であろうとする人間も全て霞んでしまって、ごった煮でもいいから飯にありつける喜びや、安全な宿でぐっすり眠れる喜びがまるで聖杯のように輝きだすのだ。それこそ人間というものだろう!

実体験で語れば、
私は旅行をするのが大好きだが、速い列車や飛行機を使って観光地を飛び飛びで巡るのは趣味ではない。むしろ電車やバスで何時間もかからないような距離を自転車や徒歩で、何日もかけて行くのが好きだ。自分の足を使うことがなによりも大切なのである。野宿したり、路上で絵を描いて売ったりするが、そこにドラマチックな物語などはない。しかし、旅が終わって思い返していたりすると、おっ!と思うところがある。

路上で絵を売っていたら駅前でヤクザの人が話しかけてきて、そのヤクザといろんな話をしたことを思い出してゾワっとする。刺青も見せてもらった。

あるいは野宿しているときに森の動物が見ている中で寝たこと。

絵を売っていた時に買ってくれた人の国籍を並べてみたら地球を一周できそうなことも、後から発見したりする。中には有名だったらしいドイツのオーケストラの音楽家もいたり(残念ながらもう名前は思い出せない)した。

そしてそんなふうに売った絵の売り上げが一晩でご飯や宿代に変わったことなどを思い出すと、本当に自分の身に起きたことなのかを疑問に思ったりする。

しかし体験というのは客観視できにくい。当事者として経験している瞬間というのは全く当たり前のことだからだ。物語というフィルターはそういう意味では便利だ。全く別の人生を擬似体験した上に、それを客観視できるのだから。

でもやっぱり現実は小説より奇なり、と私は思う。最近ハマっているのは紀行文だ。
イザベラバードの朝鮮紀行、日本紀行はぜひ一読をおすすめする。

限りある人生、楽しいものになりますように。

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