無敵の人なんていないんだよ、という自尊心の話
テロや金銭目的ではない殺人についてどう思いますか?
某YouTuberが盛んに発する言葉に、「無敵の人」というものがあります。は??知らない人もいらっしゃるかもしれません。テロや無差別殺人は、自殺の一種である、他人を巻き込んで死んでしまいたい人が引き起こすものである、という考え方です。失うものなど何もないから何をしても平気だ、だから無敵?
しかし私はどうもしっくりきません。乱射事件や列車のジャック事件が起こるたびに、YouTuberたちは版で押したように「また無敵の人だ」と事件に対して意見を発するのです。結論としてはだいたい、「こんな悲惨な人を出さないために弱者をいじめないようにしよう」とかそういう締め方をします。まあ、結論自体はいい。
テロの実行犯たちは本当に弱者なのでしょうか?失うものなど本当に何もないのでしょうか?違和感の正体はそれだけではありません。
あなたは失うものなど本当に何もない人って見たことありますか?例えば東京の渋谷なんかにいくと橋の下にホームレスがいっぱい寝泊まりしてますが、彼らは失うものなど本当に何もないのでしょうか?でも、悲壮感はそんなにないし、犯罪者予備軍のように目がつり上がっているわけではない。どこに行けば見られるんでしょう?「無敵の人」
やっぱりなんか違う気がします。犯罪を行うには計画、場所、日取りの決定、事前の準備、資材の購入など複雑な手続きが多くあります。つまり、考える余裕や時間、お金を消費するわけです。それなりの資産、あるいは収入、時間的余裕は必要ですよね。
つまり私が言いたいのは、テロや犯罪を行う人は、やろうと思えば一般人のように普通の生活を送るだけの資産や時間的余裕のある人である、ということです。なのに恐ろしい犯罪に走ってしまう。なぜでしょう?時間もお金もあるのだから、自分が幸せになれる方向に使えばいいではないですか。
ということはつまり、貧困が原因ではありません。彼らの考えること、意思決定に問題があるのです。その意識決定をする導入にあたる思考回路に、おそらく彼らが大きなニュースになってしまうような犯罪に手を染める理由が隠れています。
このように、消去法で探っていきましょう。次は自殺説を否定します。鬱になったことのある人はご存知かもしれませんが、生きていこうとする気力がなくなると、無気力すぎて自殺する気も起こらないのではないですか?外出中にフラっと線路に落ちそうになったり、車道に出てしまうことはあったとしても、勇気を出して能動的に自ら命を経つのは、かなりのエネルギーを消耗してしまうことです。重い症状だとそもそも起き上がることすら困難です。ましてや家の外に出るなんて。気力、実行力、時間的余裕、環境、冷静さが備わってなければなりません。
つまり、この種の犯罪に向かうエネルギーは、決して生きることへの意欲喪失ではない。それは無気力や生きることへの絶望からではありません。失望でもありません。気力、実行力、時間的余裕、環境、冷静さが備わっています。むしろ能動的なもの、活動的な感情です。なにか間違ったものに異常なほどのエネルギーと意欲を注いでいることになります。これで「死にたい人が周りを道連れに」説は消えました。
結論にいきましょう。
彼らがやっているのは他者の命を消し去る行為です。して、その行為には、死刑になるというペナルティーが待っている。だから私たちは短絡的に、「ああ、この人は他人の命も自分の命もどうでもいいんだ」と考えてしまいます。しかし、上記のように落ち着いて状況から判断すると、決して自暴自棄でもなければ、絶望からくるものでもありません。犯人は人生に絶望したこともあるかもしれないけど、犯行に及ぶには絶望だけでは足りないんです。何かを求めているんです。何かを得たいのでなければ、計画性や実行力を発揮できるわけがないのです。では何を?
それはズバリ、自尊心です。
ああ、やっと本題に入れます。私はこの手の犯罪者は失われた自尊心を取り返そうとしていると考えます。それを考えるにあたって質問です。あなたは命には価値があると考えますか?全ての人の命は平等ですか?
人によっては、全ての人の命は等しく価値がある、と考えるでしょうし、あるいは生きる価値のない人間もいると考える人も居るでしょうね。
私は平等派でありたいと思っています。「平等であるべき」という考えと、実際に平等に扱われているかどうかはまた別の問題ですけどね。
プライドがズタズタに傷つけられると、自分には価値がないと思ってしまう人がいます。その結果、価値のある人間と価値のない人間が世の中には存在していると、そういう世界観が芽生えてしまいます。彼にとって、名誉や地位、周囲の喝采、社会的な成功、経済力、なんでもいいですけど、その人の価値を高めて「くれそうな」ものが多いほど価値のある人間です。相場によって決まる、お金のように流動的な自尊心です。
その一方、プライドが傷つきにくい人がいます。例え誰かが誰かをゴミ屑のように扱っても、ゴミ屑のように扱われた人は別にゴミ屑ではないということを知っているからです。どう扱われるかは関係ないんです。値段はすなわち価値を表すわけではない。商品の値札の金額は必ずしも価値を反映しませんよね。だから、ゴミ屑のように扱われたとしても自分をゴミ屑だと思ったりはしません。固定相場制。これが本当の自尊心です。
両者の違いは理解できましたか?相場によって、つまり他人にどう扱われるかによって自尊心が決まる人は他人に操られやすいです。自分の周りに危険な思想を持つ人がいたり、犯罪を唆す人がいたら危ないでしょう。こういう人はまるで自尊心に収支があるようです。「お前はだめなやつだ」「価値のない奴だ、でも、挽回するチャンスがあるぞ」こう言われたらきっとそれが犯罪でも動いてしまうでしょう。自尊心がズタズタになれば、大赤字です。その大赤字を取り返そうとするのは危険なことです。こうなってしまった人は早急に、乱暴なやり方で、大きなことを成し遂げようとします。そのうちの一つがテロなのです。
自尊心、という目に見えないものが価値なのか、それとも単に値段なのか、そこが大きな分かれ目であるというのが私の主張です。
犯罪者に限った話ではありませんが、変動する自尊心を持つのは危険なことだとお分かり頂けましたでしょうか?私は私である、という不動の自尊心を持ち続けたいものです。
最後までありがとうございます。あなたに小さな幸せが続きますように。
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