イチ編集者が感じる、「伝わる文章」と「そうでない文章」のちがい
「書籍編集」という仕事をしていて、ふだんから原稿を読んだり、また現在35万部を超えロングセラーとなっている『文章力の基本』という本をはじめ「文章」に関する本を編集したりするなど、「文章」について考える機会は比較的多い生活を送っています。
編集者になりたての頃から、無意識的に「伝わる文章かどうか」のモノサシ(基準)にしていることがいくつかあります。
原稿を読みながら、感覚的にはその基準によって、チェックしているとは思うのですが、これまで言語化したことはありませんでした。
けれども、ちょうど今読んでいる原稿が、あまり伝わらない文章だと感じ、とりわけどのような点かをあらためて考えてみると、「こういうことか!」というのが自分でも要素としてわかってきた気がします。
「伝わる文章どうか」のモノサシの1つは、結論から言うと
「書いてある内容に対して、表現が適切かどうか」。
より事実に即して、表現を適切に書けるほど、伝わる文章になるというわけです。
どういうことかと言うと、たとえば次のような文が途中まであり、
アメリカ人はみんなホットドックを食べている~
「伝わらない文章」だと感じてしまう場合、
アメリカ人はみんなホットドックを食べているはずである。
※実際に、このような文章はよく見ます
「食べているはずである。」は、「えっ、(事実と)ちがうでしょ?」とついツッコミたくなるような決めつけた語尾です。
文章の内容は途中までは同じでも、より「伝わる文章」を書ける人は、たとえば、
「アメリカ人はみんなホットドックを食べているはずである」と思っている人は、ごくわずかだがいるかもしれない。
などと、文章の内容と現実的な状況が、なるべく噛み合うような表現にしているのです。
あくまでこれは一例ですが、「伝わる文章」の1つの傾向として、「断定すべきことは、断定して」「断定できないことは、断定していない」ということが言えます。
よく作文を指導する本などには、「『思います』ばかり使うのは良くない」と書いてありますが、あまり自信がないことや、断定できないことは「思います」が適切なケースもあると思います。
文章というのは、頭で考えたことを文字にして表現したものです。「表現」としましたが、「より事実に即して、表現を適切に書けるかどうか」というのは、もしかして「思考」の段階によるものではないかとも思いました。
そう考えると「伝わる文章」というのは、「どれだけ実際の状況を切り取った思考」ができているかどうか、そしてそれを文章で表現できるかどうかだと、今書きながら気づいてきました。
たとえば、子どもがよく言いがちな、おもちゃを買ってほしくて母親に言うセリフを文章にしてみると。
(そのおもちゃを)みんな持ってるから、ほしい。
これは「みんな持ってるから、自分も買うべきだ」ということを、そのまま伝えてしまっています。いわば、自分の主観だけの文章。
けれども、たとえばより現実的な状況に即して伝えようとすると。
(そのおもちゃを)クラスの半分以上の人が持っていて、より「みんなと共通の話」ができると、もっと友達と仲良くできるから、ほしい。
主観と客観を分けて、書いているわけです。そうはいっても、母親はすぐに買ってはくれないかもしれないですが、おそらく「みんな持ってるから、ほしい」よりも、母親はより状況が理解でき、子どもの気持ちも伝わるはずです。
これらを踏まえると、最初の「伝わる文章」のモノサシの1つについて、より現実的な状況を切り取ってまとめるならば、
思考で客観的に状況をとらえて、文章で主観と客観を適切に表現できているか
ということかもしれないと思います。
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