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ウィッキペディアにおけいさんを載せてみようと頑張りました。

ウィッキペディアは誰もが載せることができるらしい。
載せ方のテンプレートのようなものはなく、どのように載せても良いらしい。
そこでどこから入ればよいのか検索してみた。
『ウィッキペディアの書き方』で良いのかな?
検索すると下が出てきた。

でクリックすると

ログインの勧めがあるのでアカウントを作ることに。

こんなのが出てきました。

色々記入したら下の画面になりました。

何かよくわからなくて、初めから『ウィッキペディアに投稿する方法』で検索しなおして『Help:新規ページの作成』を見つけ、その下に題名を入れれば『新規記事の作成』が青くなりそれをクリックすれば、書くことができるページに飛ぶようだ。

ちなみに松沼慶子と間違いて書いてしまい戻って書き直してまたクリックしました。

とりあえず上の画面が出てきたけど、これからどうするかいろいろ検索したら、誰かのページをコピーペーストすればいいと書いてあったので寺さんのをしました。

表は消した。

寺さんは著作とか画家とかあるので目次が必要だろうが、おけいさんは来歴しか知らないので、それだけにした。

実にシンプルに仕上げた。
数回会っただけだし、「おけいさん」の本を読んだだけなので、これ以上詳しくは書けない。

ページ公開をクリックしたら下が出てきてしまった。

何か適当に入れたら下が出てきたので、このアドレスをスマホで見るとその下が出てきた。

審査とか受けて合格なら中身が表示されるのだろうか?
全く分からない。お手上げである。
数日してから、二重カッコ『をただのカッコ「に直し、題名からおけいさんを外し松村慶子だけにした。そして、ノートと言う物に、この記事情報をどこで入手(おけいさんと言う本)したかを書いてアップしたら、何かできたみたいだ。
スマホにアドレスを入れて確かめてみたら下が出てきた。

一応成功したのだろうか?
数時間たったら、ノートの会話ができるところに下の注意が来た。

「松村慶子」の新規作成を拝見しました。初期に貼付されたテンプレート(?)は、第三者によって付与されるべきもので、作成者が責任回避のために用いるものではありません。今後、このような無責任な作成はなさらない様に強く忠告致します。まずはHelp:目次 新しい記事を書く傘下の各ページをお読み下さい。--220.100.60.25 2021年8月28日 (土) 02:50 (UTC)

注意するのはありがたいが、全く意味が分からない。
もう少し具体的に書いてくれれば直しようがあるのだが、新しい記事を書く傘下の各ページをお読みください、って、そこを読んでもよくわからないから、このように書いたのに。

注意なのか嫌がらせなのか分からない?
注意なら、このように直した方が良いですよと書いてほしいものだ。
また、作成者の責任回避と言うのもよくわからない。
誰かから訴えられるのかな?
とりあえず「初めてなので、注意をしてくださっても何のことなのか分かりません。
できればもっと具体的に教えてください。
何を直したらよいのか?
[[Help:目次 新しい記事を書く]]を読めと言われても、私が読んでわかるようなレベルなら、おそらく指摘した間違いも犯さなかったと思うのです。
ウィッキペディアはパソコンを熟知した人しか関わってはいけないというのなら、私も間違ったと思いますが、後によくわかる人が訂正していってくれるものなら、歳を取った私のようなものでも参加しても良いと思うのです。
できれば分かりやすいような注意をお願いします。」
と入れておいた。

クレームは来ましたが、載せることには成功したと思い、このnoteでは、このおけいさんをウィッキペディアに載せた理由をここから書いていきます。

  日本で2番目の女性音楽ディレクター




日本で2番目の女性音楽ディレクターがおけさんこと松村慶子である。
1860年代、いわゆる東京オリンピックの時代、音楽は巷に流れるようになりレコード協会も活気始めてきた時代である。
そんな時代にレコード・ディレクターに採用された29歳の藤原慶子がポリドールに入社する。
業界ではおけいさんと呼ばれ愛された存在になっていった。
今の若い人は知らない歌手、知らない歌ばかりだろうが60代以上の人にとっては体に染みついたような歌ばかりである。
それらをプロデュースしたのがおけいさんなのだが、その業績をネット上で見ることがない。
もちろんWikipediaにも載っていない。
おけいさんが育てた歌手や作詞家、作曲家は大家としてWikipediaには載っているし、それほど大家にならなくても載っている人ばかりなのに、おけいさんは載っていない。
音楽プロデューサーと言う地位はそんなに低いのだろうか?
それ故、ここに私の調べた限りを載せておきます。

おけいさんに私は少しだけ縁を持ったことがある。
そのことを今から3年前の2018年のFacebookに書いた。
Facebookには同月同日の過去の思い出が表示される。
今年、3年前の8月7日のことが出てきて読んでみた。
下がその文であるがその文章に付け足したのを載せました。

8月6日は寺さん(寺本幸司)の80歳の誕生日が開かれると言うことで私にも招待状が来ていた。
1度は参加すると返事を出したのだが、その後に音楽と関係ない自分が行っても良くないのではないかと言う疑問が頭の中を駆け巡り、気分は行きたく無いにドンドンなっていった。
それに、パーティーに招待されたのは私一人だけで、妻が招待されなかったのも腹を立てていた。
このパーティーは寺さんやチエさん(沢チエ)が主催ではなく、私の全く知らない人が主催だったので、仕方ないのだけど(寺さんとチエさんは私たち夫婦の仲人である)。

          沢チエ☟

セヒがいなく、場違いなパーティーに行き、ひとりぽつんとたたずむのは誰もが嫌だろう。
パーティーの壁が嫌なお嬢様とそこは同じだ。
寺さんは主役だから私とは挨拶するだけになるだろうし、チエさんだって忙しいだろうし、高校のクラスメートの小出正則もステージで歌うらしいから忙しいだろうし、音楽仲間が集まるのだから、私を相手にしている時間は無いはず、なんてガキの気持ちのようになっていた。

実は、このとき、かなりの鬱状態になっていたと思う。
やろうとしていた、最後だろうと思うビジネスが駄目になり落ち込んでもいた。
私は常に前を向いていない人生は駄目なんだろうと思う。
ただ、その後、沖縄に戻り、縮緬浮世絵(クレポン)とファン・ゴッホ、印象派の研究を本格的にやりだしたので、この私にしてはひどい鬱状態はこの寺さんのパーティー前だけであり、最高に酷かったのが、ホテルにパーティーが始まる4時間くらい前にチェックインして、そのまま、ベッドから出られなかったときだ。
パーティーに行きたくない、本気でそう思いベッドを出られなかった。
おそらく人生で初めてのことだったかもしれない。
それでも、始まる時間までには何とか起きて行った。
だから、本当の鬱ではないだろう。
本当の鬱ならそのまま、ホテルを出れないから。
鬱の人と約束をして、すっぽかされたときは腹を立てたが、こう言う気分だったのだろうと、少しはわかった。
パーティー場所は原宿のルイード?なのか、原宿のライブ場だったのは間違いない。

パーティーが始まっても落ち込んでる状態は変わらない。
寺さんが時々、誰かを紹介してくれるが(ミュージシャン)知らない人ばかり。
でも、世間では有名なのだろうと、スマホで検索すると、皆ウィッキペディアに載っている人ばかり。
チエさんとは会場に入ったときに挨拶をしただけ。
やはり、忙しそうにしている。
小出を見ると、こちらも忙しそうにしている。
それでも、チエさんは席を決めてくれ、何とか座ることはできた。
参加者は皆懐かしそうに話をしている。
予想していた通り私はぽつんとしていただけ。
すると、チエさんが隣の人を紹介してくれた。
コーちゃんだ。
チエさんの幼なじみで、チエさんと寺さんからその名前はよく聞いていた。
寺さんはコーちゃんのことを「何しろ偉い人だから」と言うだけで、何で偉いのかまでは説明してくれない。
だから、偉い人なら親しく話すこともできないから嫌だなあ、と考えていたのだが、予想と反して、凄く気さくに前からの友達のように話しかけてくれ、ひとりぼっちの私はとても助かった。
バーテイの中頃にチエさんがおけいさんの前に連れていき「懐かしいでしょう川上さんだよ」と言ったのだかおけいさんは少し困った顔をした。
あ、覚えていないんだ。
20年以上もまえだから、仕方ないと言う気持ちと、私を覚えていない、自分はその程度なのかと言うがっくり感。
私とおけいさんが初めてあったのは1999年の春だったと思う。
場所は大滝の周りに露天風呂がある伊豆の旅館。
おけいさんと、松村さん夫婦に寺さんとチエさん夫婦、そして、私と婚約者のセヒの3組6人だった。

      松村さんがむつ・ひろしの名前で作曲した曲☟

          これも松村さん作曲☟

        下も松沼さん作曲

おけいさんは旅館に着くと気分が悪いから露天風呂はパスすると言った。
私は絶対お勧めの露天風呂だから、何とか参加して欲しいと思い、軽くマッサージをし、その後に足もみをした。
その頃、私の身体が悪いので足もみを金ちゃんに教えていたので、自分でもある程度できた。
気分が悪い程度なら軽いマッサージと足もみてで何とかなると思ったが、やっぱり何とかなり、一緒に露天風呂には入ることができた。(もちろん女性は水着をつけています。)
寺さんからおけいさんは日本で二番目の音楽ディレクターで松村さんも業界では知らない人はいないほどの人だとは聞いていたが、こっちはなにも知らないのだから緊張することもなかった。
その頃、松村さんは仕手株にはまっていて、私も友人が仕手株本尊と知り合いだから仕手の情報を貰っていたので、その情報を松村さんに教えて上げたら、「そういう情報はあちこちから出るんだよ。信じて痛い目みるんだ」みたいなことを言って、その情報を全く信じていなかった。
後日寺さんが「松村さんが凄く感謝していたよ、あれかなりあがったようだね」と言ってきた。
確かに松村さんに言ったときから2~3倍になった。
あの時は笑っていたのに、ちゃっかり買っていたんだと可笑しかった。
ただ、株は買いは問題無いけど売りが難しい。
儲かったところで手仕舞すれば良いのに欲が出て売りそこね、暴落して大損害を出す。
松村さんが、どこで売ったかは知らないが、仕手株なのでその時売っていなかったら逆に損をしたはずだ。
私がそうだったから。
仕手本尊は初め、本当の情報を流し、周りを信用させたときに、一気に売りを出し一人だけ勝ち逃げをする。
周りは儲かったと喜んでいても直ぐに地獄に落とされるのである。
仕手株がおじゃんになったあとに、友人からまた仕手情報が入った。
私は大損していたので、資金がないので買えなかった。
仕手情報の初めはいつも正解だから、欲さえ出さなければ短期間で大儲けはできる。
この情報をどのタイミングで言ったのかは忘れたけどおけいさんに言った。
するとおけいさんは直ぐに私の言葉に乗り一口買うと言う。
500万円くらいだったから、そんな言葉で出せる金額ではない。
その後、その株が少し上がったときに友人から「直ぐに売って」と言う電話が入った。
私も慌てて直ぐにおけいさんに電話して「直ぐに売って」と言った。
少ししか儲からなかったけど大損は避けられた。

その後、やはり下がっていったから。
と言うようなエピソードが私とおけいさんにはある。

バーテイが終了すると私は直ぐに逃げ出すように出ていった。
二次会みたいなのがあるとしたら、関係者ではない、私に出席するかと聞くのも寺さんやチエさんには迷惑だろうから帰るという挨拶をしたら直ぐに出ていった。
沖縄には翌々日に帰る予定だった。
何かあるかもしれないから1日予定を開けていたのだ。
翌日の飛行機チケットにしておけば良かったと後悔したが遅い。
そこで、小出に電話して昼飯を食おうと言った。
バーテイでは全く話さなかったので時間が取れるのならゆっくり話したいと思ったからだ。
小出は承知してくれたので、川崎のどこかで一緒に昼食を食べた。
話が盛り上がっているときにチエさんから電話がかかってきた。
「宏さん、うちに来るのでしょう」

バーテイ会場で時間があるならチエさんが住んでいるアパートに翌日遊びにこいと誘われていたのである。
私はチエさんのアパートに遊びに行く気が100%なかった。
だから、何とか誤魔化そうと思ったら「昨日、おけいさんが宏さんのことを覚えていない感じだったけど、あの後話をしたら、あの川上さんさんだったの是非会いたいと言うから遊びに来て」とチエさんが言う。
おそらく、チエさんも、あの時の気まずい雰囲気を気にしていたのだろう。
それで、もう一度おけいさんに確かめたのだと思う。
そのようなことを言われたら断る理由はない。
直ぐに向かいますと言って、小出にも「じやあな」と言い、チエさんのアパートに向かった。
実はチエさんが住んでいるアパートはおけいさんの家の横にたてられていて、アパートとは繋がっていたので、チエさんのアパートに遊びに行くと言うことはおけいさんの家に行くと言うことなのだった。
チエさんはこの頃、会員制のバーを東京でしていたので、寺さんとは別居していて、東京のお母さんとも言えるおけいさんのアパートに住んでいた(家賃は払っていたらしい)。
駅を降りて線路沿いに真っ直ぐ行ったところにおけいさんの家はある。
20年前にも来たはずだけどその場所はすっかり忘れていた。
おけいさんの家の応接間に案内され、何か色々なことを話したけど、今では何を話したかは忘れてしまっている。

寺さんの悪口は言っただろうなあ(笑)。
ただ、おけいさんが聞き上手なので私が色々なことを際限なくなく話したのは覚えている。
チエさんが仕事に行くからと言ったから、普通ならチエさんと一緒に帰らなくてはならないのに、「宏さんはもう少しいたら」とチエさんが言うから、チエさんを駅に送ったら、また戻りおけいさんと話した。
寺さんの先輩のおけいさんだから、もう良い歳である。
それなのに、耳はちゃんとしているし、私の話の理解度も寺さんより分かっている。
こんな年寄りなら私もなりたいと思った。
かなり遅くなり、さすがにホテルに帰れなくなるかもしれないと言う時間におけいさんの家をでた。
私も沖縄の山奥に住んでいるから喋ることにうえていたのかもしれない。
ホテルに戻りおけいさんのことをウィッキペディアで調べようと検索したら
おけいさんがウィッキペディアに載っていない。

確か、おけいさんと話していたときもおけいさんが「私はウィッキペディアにでてないと思うよ」みたいなことを言ったので、気になって調べたのだ。
そして、興奮していたのだろう。
Facebookにおけいさんの経歴を知っている人はウィッキペディアに書いて、と載せたのを3年後の今読んで、さすがに今はウィッキペディアに載っているだろうと検索しようと思ったら、おけいさんの氏名を忘れてしまった。
軽い認知症も私を襲っている。
でも、もしかしたらおけいさんで検索してもウィッキペディアにでてるかもしれないと考え、検索するとアマゾンにおけいさんのことを書いた本があるのがわかった。
即購入。

確か3年前か、20年前か、そのような本があるのは聞いていた。
その時は調べても在庫が無いのだろう、手に入らなかった。
その本が昨日届いた。
早速読んでみた。
内容は、寺さんが書いた「音楽プロデューサーとは何か」が陰で、「おけいさん」が陽なのだが、似たような匂いを感じた。

寺さんは自分で書き、おけいさんは石原信一氏と言う他人が書いたから陰陽があるのかもしれない。
「おけいさん」に寺さんが出てくるのはP150の中頃を少し過ぎたところ。
おけいさんのところに芸映の鈴木力氏と若き寺さんがポリドールを退社すると言うおけいさんの噂をどこかで聞きつけ、自分達が作ろうとしている マイナーレーベルのレコード会社に参加させようと口説きに来ている場面だ。
鈴木力?
あれ、私のFacebook友達にRiki Suzukiっているよ。
寺さん繋がりだから同人物?
これは同一人物ではないでしょうが、ちょっと面白い偶然。
何しろ寺さんの本を読んで感動した人はこの本も同じくらい感動するはず。

「おけいさん」は私がアマゾンで買った時は最後の一冊だけど、後でみたらまた売っていた。
早い者勝ちかな。

と言うのがFacebookに載せた文章に付け足した文章である。
この後、おけいさんの経歴を本から調べ、J&Kのホームページからも調べ、おけいさんの経歴を作った。
ただ、これだけではおけいさんの真の評価を読み取ることは難しい。
そこでおけいさんの本に何が書いてあるのかを簡単に載せていきたいと思う。
経歴の表と重なるのは省きますし、社会的な成功を主体に書きます。
これはおけいさんをネットで調べてもほとんど何も出てこないから、音楽協会では歴史的な女性なのに音楽プロデューサーが世間ではあまり認められていないからと言う理由で埋もれてしまうのはおかしいと思いここに書こうと思ったわけです。
フィンセント・ファン・ゴッホの弟のテオもそんな存在だし、浮世絵の縮緬浮世絵(クレポン)同じなので、そういうのを世に現したいと思うのは私の性かもしれない。

  おけいさんの人生

1931年 藤原喜十一の次女として東京池袋に10月3日生まれた。
おけいさんの父は土木建設の請負をしていて、その関係だと思うが、おけいさんが小学校5年生の時に満州に仕事で行き、太平洋戦争が終わっても戻ってこなかった。
おけいさんの母は現在の池袋三越前で割烹旅館を経営していた、と小説には書いてあったが、これだけ読めばおけいさんの両親は金持ちなのだろうと分かる。
蓄音機から流れるレコードだけが子供たちだけで留守をする家にせめてもの彩りを与えていた、と書いてあるんだが、戦時中で蓄音機を聞ける家庭なんてそうそうないと思う。
おそらく食べることは心配がない暮らしであっただろう。
そのような子供時代を過ごせば素直な性格になりやすいし、素直で明るいから、大人になれば良き母のような存在になれる性格になると思う。
そして、会社経営を父、母ともしているのだから、自立心も初めから身についていただろう。
どのような家庭で過ごすかで人の中身は決まる可能性があるので、これだけでもおけいさんが社会で何かをやれる素質を持っていたと分かるし、その後、空襲で東京は焼け野原になり、おけいさん一家も疎開することになるので、人より上の生活をしていたが、戦争により逆境も味わったということになった。
そして、もともとの両親から受け継ぐDNAでおけいさんは組織のトップになるべく運命を持っていたと感じる。
おけいさんは日本で2番目の音楽ディレクターになり、数々のヒット作を作るが、おそらく、ディレクターより、その上のディレクターを作る仕事の方が本領を発揮できる能力を10代の時に身に付けたように思う。
おけいさんの若い頃は普通のお嬢さんに見えたらしい。
活動的な性格なのだが表面は穏やかに見えたんだろう。
おけいさんは女子美術大学在中に米軍のお客が主体のバーの店長をやり、その時に黒人にやさしい言葉をかけたら古くからの店員に、そんなことはしてはいけない、ここは白人しか入れないのだから、みたいなことを言われた。
人に対しての差別意識がないおけいさんにとって初めての差別を経験したのだと思う。
おけいさんは、相手に対し色眼鏡で見ない。
つねに同じように接しているのだと思う。
私たち夫婦が初めて会った時もそうだったから。
相手に対して興味のなさそうな顔をして、実は深く相手を観察している、だからレコードディレクターと言う人のつながりが重要な職が向いていたのかもしれない。
またこの
女子美術大学在中に東映の大泉撮影所の美術助手のアルバイトをして、女子美の友達を撮影所に連れて行って、友達を驚かせている。
つまり、女子美と言っても絵関係で職を得るのは難しい時代だったのに、おけいさんは、学校在学中に絵の関係の仕事をしていたからだ。
卒業すると
、女性バンドを率いる「ケイコ企画室」を作り、この会社は成功をおさめるのだが、雇っていたスタッフがどんぶり勘定、金をねこばばするなど、いわゆる芸能界そのままの体質だったので、二重契約を堤防スタッフがしてしまい、その違約金問題が出て、本来なら、直接かかわっていないおけいさんの責任ではないのだが、それを清算して「ケイコ企画室」は閉鎖になった。
おそらく水商売、お金に汚い業界に嫌気がさしたのだろう。
これは私も30歳の時にプロダクションを作ったからとても理解できる。
業界の人間は口当たりはうまいことを言うが、金に汚い人が多いし、何もしないのに何か仕事が取れると自分が裏工作したみたいに言ってくる。
毎月、お金を払い雇っていた業界関係者は、口ばっかりで何もしないと見切りをつけ全て縁を切ってから私のプロダクションは、少しは成功していった。
そしてその業界体質はかなり改善されたのだろうが、まだまだ残っていると思う。
おけいさんの時代なら、やくざとほとんど変わらなかったはずである。
おけいさんはその後、ポリドールで日本で2番目の音楽ディレクター(今ならプロデューサー)になるのだが、そこで破竹の快進撃をする。
70歳前後以上の人でないと分からないと思うが「コーヒールンバ」や「ヴァケーション」、「何もいわないで」など、私が幼いころに口すさんでいた曲はみんなおけいさんがプロデュースしたのだ。
そしてこのポリドール時代に夫となる松村憲男氏と知り合う。
この松村憲男氏はおけいさんとよきライバルだったらしい。
おけいさんが在職中はおけいさんがポリドールの記録を作り、おけいさんが退職をすると松村憲男氏がタイガースをプロデュースしてその記録を塗り替えた。
それだけすごいプロデューサーでも、ウィッキペディアには出てこない。
しかし、松村憲男氏が凄いのはプロデューサーだけではなく曲も作っていて、その曲が大ヒットしているのだ。
ザ・キング・トーンズの「グットナイトベイビー」、さくらと一郎の「昭和枯れすすき」、小田島和彦の名前で和田アキ子の「どしゃぶりの雨の中で」
等、誰もが知っている曲を作ったのだが、曲を作る時はむつひろしのペンネームを使い、このむつひろしはウィッキペディアに載っている。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%80%E3%81%A4%E3%81%B2%E3%82%8D%E3%81%97

特にグットナイトベイビーはアメリカのビルボードで48位にランクしたのだから世界的な作曲者だと言える。
私が松村さんと会った時はB型肝炎だと言われ、東南アジアの仕事の時にかかったと言われたのだが、本を読むと胆石の手術の失敗により肝臓を悪くしたようだ。
私も病気で苦しんでヘタヘタしていたのだが、松村さんも同じであった。
ただ、私が会ったときはそんな偉大な人の雰囲気はなく、ただの株好きのおじさんに見えた。
おけいさんはポリドールを退社した後に寺本幸司が企画したマイナーレコードの会社アビオンに誘われ、寺さんの熱意に何かを感じアビオンに入るのだが、ここでは成功せず、出資者が七千万円の金を出したのに全く目が出ないから寺さんを怒鳴り罵っていたのをおけいさんは見て、そのころ、盟友の小澤惇と一緒にJ&K(音楽出版会社)を作ったばかりだったので、アビオンを辞め、J&Kで仕事をすることになったのだが、寺さんもJ(じゅん)K(けいこ)の間の&としてJ&Kで一緒に仕事をしようと誘い、寺さんも了承した。
このアビオンは出資者には悪いが寺さんやおけいさんにとっては失敗してよかったかもしれない。
成功すれば出資者が色々口出しするだろうし、歌手などに手を付けるかもしれない。
今の時代とは違うのだから、きれいごとでは誰も金を出さない。
だからアビオンで成功してもその後が大変だったと思う。
J&Kは音楽出版の会社である。
今では音楽出版、いわゆる音楽権利の著作権管理の会社なのだが、おけいさんの時代では全く新しい感覚の物だった。
当時は音楽会者が権利を独占していた。
曲を作るのに全て音楽会者がお金を出していたのだから仕方がないのかもしれないが、それだと個人の作る権利が安い金で買われていくら大ヒットを飛ばしても、作成者にうま味がない。
これは漫画の世界でも同じだった。
著作権がはっきりしだしたからこそ、昔の曲がカラオケで歌われることで、今でも優雅に暮らせる作詞家や作曲家は多いと思う。
そのさきがけの会社がJ&Kであった。
J&Kが発足するとおけいさんの夫の松村さんが、そのころ作曲したグットナイトベイビーの権利をJ&Kに預けた。
後に大ヒットするこの曲はJ&Kには嬉しいプレゼントだっただろう。
浅川マキは、今では伝説の歌手として有名だがポリドール時代からおけいさんが連れてきた歌手であった。
この浅川マキのプロデュースに関して寺さんと大喧嘩をし、おけいさんが寺さんならいい感じでプロデュースできるのではと期待して、寺さんがプロデュースすることになった。
その後、リリーとか桑名正博のファニカンをJ&Kが手掛けたのだが、売れてきたため、音楽出版会社のJ&Kでは抱えることができず、さりとて他のプロダクションに渡すこともできないので、寺さんを独立させプロダクション(モスファミリー)を作らせ、そこに移籍させた。
私は、寺さんにとってこれは良かったのかは疑問である。
寺さんは音楽プロデューサーの才能は持っているが経営能力は持っていたのだろうか?
おけいさんは現実を重視していたが寺さんは夢を重視していたように思える。
これはプロデューサーとしては問題ないが経営者となるといろいろ問題が出てくる。
もちろんモスファミリーは業界で伝説のプロダクションになったし、ニューミュージックやフォークなどの関係者でモスファミリーを知らない者はいなかっただろう。
だから、そういう意味では成功者なのだが、それと金儲けは違うのである。
おそらく、近代的な経営感覚があった小澤氏やおけいさんと違い、古い芸能界体質を持った寺さんでは芸能界の移り変わりの対応が違っていたはずだ。
J&Kには若かりしの小室哲哉がたむろしていた。
小室哲哉は一時代を作ったのだから知らない人はいないだろう。
私はある業界パーティに寺さんに誘われついていったことがあるのだが、その時に、小室哲哉の作った会社に参加した人たちもいたらしく、寺さんのところの人が、その人たちが鼻高々になっているのを見て何か言ったのかは忘れてしまったのだが、うらやむとは違うし軽蔑とも違うし、何かモヤモヤしたことを言ったのを覚えている。
つまり、小室哲哉が独立する前は仲間だったのが、小室哲哉が独立するときについていった仲間が業界で鼻高々になっているのを見て、自分たちは小室哲哉についていけばよかった、いや、今にこっちものし上がって見せる、みたいな、何ともいえない感情を感じたのだ。
モスファミリーは華々しい時代もあったのだが、私が寺さんと知り合った時は、名前だけが残っているプロダクションで累積赤字が膨大な会社であった。
寺さんは税務署で税金を払わないとは言いません、今は無い袖は振れないのです、みたいなことを言っていたらしい。
寺さんからしてみれば、一発当てれば税金なんか払えると考えてモスファミリーも残していたのだろう。
残しているから税務署もなんだかんだ言ってくる。
それに対して、律義に税務署に出向いている。
税務職員は、これだけの赤字なんだから会社を清算した方が良いとアドバイスをしたのだが、それを受け入れられなかったらしい。
何しろ、モスファミリーと言う会社は伝説の会社なのだから。
私は寺さんから帳簿を見せてもらい、これは駄目だと確信し、寺さんに「この会社は一度清算して新たに会社を作った方が良い」とアドバイスをした。
赤字は儲かったときに払わなかった税金が累積しているだけなのだし、税務署も寺さんに財産が無いから取り立てることもできないため、会社を清算するのは税務署も大喜びなのである。
だからモスファミリーと言う伝説の会社を無くしたのは私のせいかもしれないが、その時はモスファミリーが伝説の会社だとは知らなかったし、合理的に考えて清算しかないだろうと考えたのである。
おそらく、おけいさんも賛同したはずだ。
これが経営感覚を持っている者と、夢を大事にして会社を経営している者の違いかもしれない。


松村 慶子
出生名 藤原慶子
別名 おけいさん
生誕 1931年10月3日
出身地 東京 池袋
学歴 女子美術大学卒
職業 ライブハウス ルイドチェーン.新宿Reny.

赤坂Reny2などの会長

松村 慶子(まつむらけいこ、1931年10月3日ー)通称おけいさんは日本で2番目のレコードディレクターであり西田佐知子(コーヒールンバ)、青山ミチ(ヴァケーション)(涙の太陽)、園まり(何も言わないで)(逢いたくて逢いたくて)(夢は夜ひらく)、菅原洋一(知りたくないの)、浅川マキ(東京挽歌)(アーメン次郎)などを手掛けた音楽プロデューサー。夫、松村憲男はポリドールのレコードディレクターであり、むつ・ひろしの名前でザ・キング・トーンズの「グットナイトベイビー」、さくらと一郎の「昭和枯れすすき」、小田島和彦の名前で和田アキ子の「どしゃぶりの雨の中で」の作曲者。


経歴

1931年 藤原喜十一の次女として東京池袋に10月3日生まれた。1945年3月9日の東京大空襲で自宅が全焼し父は満州に仕事で行っていたため母、睦子(長女)、慶子(次女)、伸伍(長男)の4人で兵庫県丹波篠山の母方の親戚宅に疎開した。終戦から7か月後、母は割烹旅館を椎名町で経営。子供たいも東京に呼び戻され慶子は都立第十女学校入学、旧制中学から新制高校へ切り替えの変則時期だったので女学校を5年生で卒業し、富士銀行本店株式課から半年で兜町支店に配属。1951年春、大学入学資格検定試験に合格し女子美術大学に入学。女子美術大学在中、母が朝霞の米軍駐屯地近くのバーのオーナーになり、その店の店長になる。また女子美術大学3年生の時に東映の大泉撮影所の美術助手のアルバイトをする。

1956年半年遅れで女子美術大学卒業後女性バンドを率いる「ケイコ企画室」を作るが1958年閉鎖。

ポリドール時代

1960年 10月ポリドールのレコード・ディレクターになる。日本で2番目の女性ディレクターとなる。

1961年 5月高城丈二で「北上河原の初恋」をプロデュースし発売。同じ曲の和田弘とマヒナスターズの「北上夜曲」に先行発売であった。「北上夜曲」は大ヒット曲になり「北上河原の初恋」 もスマッシュヒットした。

1961年 9月西田佐知子で「スクスク」「コーヒールンバ」プロデュースし発売。

1962年 11月青山ミチで「ヴァケーション」プロデュースし発売。

1964年 10月園まりで「何もいわないで」プロデュースし発売。爆発的なヒット

1965年 5月26日松村憲男と結婚

1965年 7月青山ミチで「涙の太陽」プロデュースし発売。

1965年 11月菅原洋一で「知りたくないの」「恋心」プロデュースし発売。作詞家なかにし礼発掘。

1966年 1月園まりで「逢いたくて逢いたくて」プロデュースし発売。ポリドールのレコードセールス記録

1966年 8月園まりで「夢は夜ひらく」プロデュースし発売。ポリドールのレコードセールス記録。中村泰士見出す。加藤登紀子プロデュース。

アビオン時代

1967年 芸映の鈴木力と寺本幸司に誘われマイナーレーベルのレコード会社、アビオンにたった一人の音楽ディレクターとして浅川マキを伴い入社。

      アビオンにて浅川マキに帆歩健太作詞、小林亜星作曲「東京挽歌」と浅川マキ作詞作曲「アーメン次郎」プロデュース。冠二郎、大原麗子「ピーコック・ベイビー」      プロデュース。

1867年 アビオン退社

ジュンアンドケイ(J&K)時代

1867年 11月松村慶子(現(株)アズミックス 会長)・小澤惇(現:

      小澤音楽事務所代表取締役会長)の二人で音楽出版ジュンアン

      ドケイを設立 寺本幸司を&として誘う。

1868年 ここから下はジュンアンドケイ(J&K)の会社でリリースし 

      た。

      ロス・インディオスロス「コモエスタ赤坂」菅原洋一「知りた

      くないの」

      ザ・キングトーンズ「グットナイトベイビー」は松村慶子の夫 

      松沼憲男が作曲しその曲の著作権をジュンアンドケイに預け

      た。130万枚のヒット。

      佐川満男で作詞作曲中村泰士「今は幸せかい」リリース。

1969年  浅川マキで作詞作曲浅川マキ「夜が明けたら」作詞寺山修司作

       曲山本幸三郎作曲「かもめ」リリース

1970年 浅川マキ初LP「浅川マキの世界」をリリース

      ベトナム戦争や国内学生運動など混沌とした時代、若者達の間 

      ではカリスマ的存在となり日本に於けるアンダーグラウンドを 

      主体とした音楽活動の第一人者である

      菅原洋一「今日でお別れ」リリース レコード大賞受賞

1971年 小椋佳「少しは私に愛を下さい」を手がけ大ヒット

1972年 りりィ 「たまねぎ」 LPデビュー(寺本幸司プロデュース)

      桑名正博率いるロックバンド・ファニー・カンパニーがデ

      ビュー。

      “西のファニカン・東のキャロル”と湧き上がったロックバンド 

      ブームの主役に駆け上がった。

      ライブハウス 「新宿ルイード」を設立

1973年 リリィ、ファニー・カンパニーを引き連れ寺本幸司ジュンアン

      ドケイを母体として独立(モス・ファミリー)。

      麻丘めぐみ「わたしの彼は左きき」 リリース

1974年 ダ・カーポ「結婚するって本当ですか」

1975年 フォーク・ポップス・ロックと若者の音楽志向が多様化してい

      き「ニューミュージック」という新たなジャンルが誕生して

      いった。 

      伊東ゆかり「わたし女ですもの」りりィ「私は泣いています」 

     (モス・ファミリー)

1976年 森田童子「ぼくたちの失敗」しばたはつみ「マイ・ラグジュア

      リー・ナイト」リリース ど制作

1978年 東京の人口がドーナツ化現象を起こしはじめ、TVでは新しい

      アーティスト発掘番組が人気だった。

      J&K 「八王子音楽祭」開催

1979年 桑名正博「セクシャルバイオレットNo.1」をリリース

      130万枚のセールスを記録(モス・ファミリー)

      SPEED WAY「ジャスト・ラブ・ストーリー」リリース

1980年 港区麻布十番にレコーディング・スタジオ「JAK」を設立

1981年  泰葉 「フライディチャイナタウン」リリース

1982年 欧陽菲菲「LOVE IS OVER」リリース

1983年 1980年代初頭に巻き起こったテクノ/ニュー・ウェイヴと  

      いう新たな音楽ジャンルを日本で確立した「YMO」がムーブメ

      ントの中心にいた頃、インストではなく、切れのいい歌を入れ

      たユニット「TM NETWORK」が結成され、翌、1984年

      「金曜日のライオン」でデビュー

1984年 芦屋雁之助「娘よ」リリース

1987年 ザ・コレクターズ アルバム「僕はコレクター」でデビュー

      TM NETWORK 「GET WILD」リリース 

1988年 ライブハウス「原宿ルイード」を設立 

1989年 オリコン主催によるレコードセールス大賞、音楽出版部門で7 

      位を獲得

1990年 G-CLEF デビュー

      インストゥルメンタルバンドとしては初めてのNHK紅白歌合戦

      出場

1991年 THE MAD CAPSULE MARKET’S ビクターより「ギチ」「あや 

      つり人形」「カラクリの底」シングル3部作でデビュー

1994年 清水まりこ 「父娘坂」リリース

1995年 鈴木重子 1stアルバム「Premiere」でBMGよりリリース

      前年ジャズボーカル新人賞を受賞し、名門ニューヨーク「ブ

      ルーノート」で日本人初のライブを行い、ジャズ界で話題と

      なった 。

脚注
「おけいさん」石原真一著1,992年八曜社出版



経歴をしたに載せる。

1931年 藤原喜十一の次女として東京池袋に10月3日生まれた。
1946年 都立第十女学校入学。
1849年 富士銀行兜町支店勤務
1951年 大学入学資格検定試験合格後女子美術大学入学
1952年 女子美術大学の寮に入る。母親が経営していた東長崎の旅館、
      朝霞の米軍駐屯地近くのバーを手伝う。
      女子美術大学時代に東映の大泉撮影所の美術の助手をする。
1956年 女子美術大学卒業後女性バンドを率いる「ケイコ企画室」を作           

1958年 「ケイコ企画室」閉鎖。
1960年 10月ポリドールのレコード・ディレクターになる。日本で
      2番目の女性ディレクター。
1961年 5月高城丈二で「北上河原の初恋」をプロデュースし発売。
      同じ曲の和田弘とマヒナスターズの「北上夜曲」に先行発売で

      あった。「北上夜曲」は大ヒット曲になり「北上河原の初恋」 
      もスマッシュヒットした。

1961年 9月西田佐知子で「スクスク」「コーヒールンバ」プロデュー
      スし発売。
1962年 11月青山ミチで「ヴァケーション」プロデュースし発売。
1964年 10月園まりで「何もいわないで」プロデュースし発売。爆発
      的なヒット
1965年 5月26日松村孝司と結婚
1965年 7月青山ミチで「涙の太陽」プロデュースし発売。
1965年 11月菅原洋一で「知りたくないの」「恋心」プロデュースし
      発売。作詞家なかにし礼発掘。
1966年 1月園まりで「逢いたくて逢いたくて」プロデュースし発売。
      ポリドールのレコードセールス記録
1966年 8月園まりで「夢は夜ひらく」プロデュースし発売。ポリドー
      ルのレコードセールス記録。中村泰士見出す。加藤登紀子プロ
      デュース。
1967年 芸映の鈴木力と寺本幸司に誘われマイナーレーベルのレコード
      会社、アビオンにたった一人の音楽ディレクターとして浅川マ
      キを伴い入社。
      アビオンにて浅川マキに帆歩健太作詞、小林亜星作曲「東京挽
      歌」と浅川マキ作詞作曲「アーメン次郎」プロデュース。冠二
      郎、大原麗子「ピーコック・ベイビー」プロデュース。
1867年 アビオン退社
1867年 11月松村慶子(現(株)アズミックス 会長)・小澤惇(現:
      小澤音楽事務所代表取締役会長)の二人で音楽出版ジュンアン
      ドケイを設立 寺本幸司を&として誘う。
1868年 ここから下は
ジュンアンドケイ(J&K)の会社でリリースし 
      た。
      
ロス・インディオスロス「コモエスタ赤坂」菅原洋一「知りた
      くないの」
      ザ・キングトーンズ「グットナイトベイビー」は松村慶子の夫 
      松沼憲男が作曲しその曲の著作権をジュンアンドケイに預け
      た。130万枚のヒット。
      佐川満男で作詞作曲中村泰士「今は幸せかい」リリース。 
1969年  浅川マキで作詞作曲浅川マキ「夜が明けたら」作詞寺山修司作
       曲山本幸三郎作曲「かもめ」リリース 
1970年 浅川マキ初LP「浅川マキの世界」をリリース
      ベトナム戦争や国内学生運動など混沌とした時代、若者達の間 
      ではカリスマ的存在となり日本に於けるアンダーグラウンドを 
      主体とした音楽活動の第一人者である
      菅原洋一「今日でお別れ」リリース レコード大賞受賞 
1971年 小椋佳「少しは私に愛を下さい」を手がけ大ヒット 
1972年 りりィ 「たまねぎ」 LPデビュー(寺本幸司プロデュース)
      桑名正博率いるロックバンド・ファニー・カンパニーがデ
      ビュー。
      “西のファニカン・東のキャロル”と湧き上がったロックバンド 
      ブームの主役に駆け上がった。
      ライブハウス 「新宿ルイード」を設立 
1973年 リリィ、ファニー・カンパニーを引き連れ寺本幸司ジュンアン
      ドケイを母体として独立(モス・ファミリー)。
      麻丘めぐみ「わたしの彼は左きき」 リリース 
1974年 ダ・カーポ「結婚するって本当ですか」
1975年 フォーク・ポップス・ロックと若者の音楽志向が多様化してい
      き「ニューミュージック」という新たなジャンルが誕生して
      いった
。 
      伊東ゆかり「わたし女ですもの」
りりィ「私は泣いています」 
     (モス・ファミリー)
1976年 森田童子「ぼくたちの失敗」しばたはつみ「マイ・ラグジュア
      リー・ナイト」リリース ど制作 
1978年 東京の人口がドーナツ化現象を起こしはじめ、TVでは新しい
      アーティスト発掘番組が人気だった。
      J&K 「八王子音楽祭」開催 
1979年 桑名正博「セクシャルバイオレットNo.1」をリリース
      130万枚のセールスを記録(モス・ファミリー)
      SPEED WAY「ジャスト・ラブ・ストーリー」リリース 
1980年 港区麻布十番にレコーディング・スタジオ「JAK」を設立 
1981年  泰葉 「フライディチャイナタウン」リリース 
1982年 欧陽菲菲「LOVE IS OVER」リリース 
1983年 1980年代初頭に巻き起こったテクノ/ニュー・ウェイヴと  
      いう新たな音楽ジャンルを日本で確立した「YMO」がムーブメ
      ントの中心にいた頃、インストではなく、切れのいい歌を入れ
      たユニット「TM NETWORK」が結成され、翌、1984年
      「金曜日のライオン」でデビュー 
1984年 芦屋雁之助「娘よ」リリース 
1987年 ザ・コレクターズ アルバム「僕はコレクター」でデビュー
      TM NETWORK 「GET WILD」リリース  
1988年 ライブハウス「原宿ルイード」を設立  
1989年 オリコン主催によるレコードセールス大賞、音楽出版部門で7 
      位を獲得 
1990年 G-CLEF デビュー
      インストゥルメンタルバンドとしては初めてのNHK紅白歌合戦
      出場 
1991年 THE MAD CAPSULE MARKET’S ビクターより「ギチ」「あや 
      つり人形」「カラクリの底」シングル3部作でデビュー 
1994年 清水まりこ 「父娘坂」リリース 
1995年 鈴木重子 1stアルバム「Premiere」でBMGよりリリース
      前年ジャズボーカル新人賞を受賞し、名門ニューヨーク「ブ
      ルーノート」で日本人初のライブを行い、ジャズ界で話題と
      なった 。

(J&K)は今でも続いている会社なので、この後も会社の業績は色々ありますが、おけいさんは第一線を退いているだろうからここまでにします。


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