ただ優しいだけの人
「優しい」という形容詞はしばしばマイナスの意味を込めて使われる。
例えば友人の彼氏を褒める時、
才能や容姿や社会的地位などを直接的に褒めることができない時、逃げ口上としてつい使いがちだ。
友人の彼氏に限らず、人を褒める時には
私たちは気付かないうちに「優しい」以外の気の利いた褒め言葉を使おうとチャレンジしている。
だからだろう、人から「優しいね」と言われる時、
「芯があるね」「気がきくね」「根性があるね」と言われるよりも、
もっと軽薄に「可愛いね」「綺麗だね」と言われるよりも、
自分が恐ろしくつまらない人間になったような気分になるのは。
優しくあれと諭されながら育てられた気がするが、ただ優しいというだけで人間として完成しているわけではないということを私たちは既に知っている。
人格者だからといって、ただただ無邪気で負けん気の強いアイデアマンの面白さの前では影が薄まる。
誰に対しても優しい人の存在は有難くはあるものの、すぐに役に立つものではなく、瞬間的な魅力を放つものでもない。
だけど、疑いようがないのは、ただ優しい人には、その人の幸せを願う人が沢山いるだろうということだ。
他に何も持っていなくても、
ただ優しいだけで、憐れみにも似た愛情を抱かれ、いつも笑っていてほしいと望まれる。
その望みこそ、願いこそ、
優しい人の「人徳」であり、生きる力だと思う。
要領が悪くて損をしたり、したたかではないために目立たなかったり、知恵が回らずに見下されたりしていたとしても、
優しい人には優しい人が集まってくる。
穏やかに平和に、優しい日々を過ごすことができる。
要領やしたたかさを重んじる人からは、ぬるい人生だ、平和ボケだ、と冷ややかな目を向けられるかもしれない。
だけど、優しい人たちはぬるくて平和な日々を自由意志のもとに選び、確実に手に入れているに過ぎない。
「優しさ」は時に「弱さ」になるが、
いつでも「優しくある」ことを選べる人は相応の「強さ」を持ち合わせている。
そこを尊重できる人間でいたい。
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