見出し画像

2019.09.22 一般凡人のパラドク図

最近ミルクコーヒーを飲むと疲れてしまう。チマチマ時間をかけて飲まないと胃が溺れてしまうのか、スーパーで売っているようなスタバのやつとかもあんまり買わなくなっていった。

これは今日買った、自販機限定のミルクコーヒー。

画像1

5時間くらいかけて飲んだので大丈夫。その間にちゃんと水も飲んでいるので。


稽古終わりに急いで身支度をして、昨日の日記に書いたニュー図解説イベントへ行く。

ニュー図の解説のみでなく過去によシまるさんが作られたいろいろな図の解説をしてくださって、ファンとしてかなり嬉しい内容だった。

図そのものの説明や、図の構想や膨らまし方、図それぞれの製作意図等々。中でもこれは!と思って必死で聞いたのは、「図漫」という図の漫画の話だ。

これ。まず見て!

よシまるさんは「漫画という枠組みから脱したかった」と仰っていて、確かに最後漫画を図にした時にコマを逆さにしたり左右対称に設置する事でロボットの形を作っているところなんか特にそうだ。

図にする事によって各コマの心情同士に整合性が取れるのがすごい。死の瞬間に「なりたいものになれた」というモノローグが入るのだが、これは図にした時走馬灯としてどの部分が再生されているかを矢印で示す事でわかってくる気がする。

男の子は合体できる大人になりたい。その意味は子どもの時分には解らなかったろうが、成長する事で理解はできるだろう。

女の子は汚い大人になりたくないし人間でなくなりたい。それは恐らく人間的な思考から来る嘘とか愛想なんかをやりたくないという事だろう。

その2人が死ぬ時、それを思っていた「子どもの頃」を見る。男の子は出会った女の子に運命的邂逅、一目惚れをする事でやがては合体する大人になったわけだから、子どもの時になりたいと思っていたものになれたと。

女の子は…一目惚れさえしたのに死ぬ事で人間としての感情や生活という営みを強制的に終了する事になる。しかしそれは子どもの頃思っていた「人間じゃなくなりたい」という思いを叶えた事になる。

という…内容の解釈。

この図漫の何が良いって、女の子の子どもの時の絵が男の子と比べて1種類しかないところですよ。死ぬ瞬間にやっと両方の目が私たちには見えるんですよね。


そのあとたまたま同じイベントを見に行く事が前日に発覚した友人とめしを食べた。今日知り合った人とも食べた。

画像2

生きている人間に対するインターネットでの身の振り方を話したり、ロッテリアの絶品チーズバーガーがコショウで辛かったり、誰から見ても一般になりたいという話をした。

一般と凡人って違うけれど、誰から見ても一般になるという事は凡人に落ち着いてしまう…という事か。だとしたらせめて自分だけでも自分を信じてやりたい親心、ならぬ本人心があるので、自分の中では一般ではなくなれば良いのかな。

それって「俺変わってるから」アピールの激しい面倒なヤツじゃないか?どうすりゃいいんだ。


これは今日の写真ですが、7月21日の休診貼り紙を今でも貼っている医院です。

画像3




本買ったりします、『不敬発言大全』が今一番気になっています。