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2019.10.28 死そだて応援団。
無事何事もなく今現在、夜行バスに乗って東京へ帰っている最中だ。地元に帰った後東京に帰る。どこにも行っていないのに帰ってばかりだな。
そういえば昨日行ったくら寿司の回る皿カバーに、ときたまぐでたまがくっついていた。ビッくらポンがぐでたまだかららしい。
現実の世界では到底あり得ないので忘れがちだが、ぐでたまはしゃべる卵だ。卵はしゃべらない。彼はこの世の全ての無精卵に宿っては食われ宿っては食われているらしく、なんなら卵が使用されている製品(チョーク等)にも出現する…とウィキペディアには書いてある。
今まで見てきたぐでたまって実は全部別個体なのか?ネズミの顔の違いがあまりわからないのと同じで、ぐでたまの個体の判別ができていないだけなのかも知れない。というか思念だけが宿って外見はその卵に依存するわけだから、生物として完成していない細胞の状態なんてみんな同じか。
ぐでたまにとっての死ってどのタイミングなんだろう。料理されても生きているらしい。仮説としては、調理段階で死ぬがすぐにまた宿り、かき混ぜられたり熱されたりして死に生きを繰り返している、とか。なので卵焼きになったときのぐでたまと使用した卵の調理前のぐでたまは別。
それとも死なない?私たちに食べられて咀嚼されても意識はずっと続いている?だったらかわいそうだな。
両方の説に言える事は、もしかしたら便にもぐでたまは現れるかも知れない。だってかなり加工されたチョークでさえ現れるんだもの。どの程度成分が残っていれば出現するというのが決まっていれば、もしかしたらその成分がなくなってゆく過程でどんどん衰弱していって最終的に体内でぐでたまは死ぬかも。
昼飯、父特製のステーキとエビドリア。
いきなりステーキも美味しいが父の焼いた肉の方が私は好きだ。
夜飯。母特製のハンバーグと枝豆しそしらすの炊き込みご飯。
ハンバーグは味噌が入っているらしい。母が買い物から帰ってきていざ作るぞと台所に立った瞬間、「肉と味噌買い忘れた!」と叫んだ。肝心なものが一切無い、何を買いに行っていたんだ。
父も母も、私がおいしいおいしいと料理を食べるたびに「良かった」と笑顔になる。私は両親を喜ばせるために生まれてきたのかも知れないなと思った。喜しの才能がある。
実家を離れてもうそろそろ二年が経つが、たった少しの間離れただけでも思う事はたくさんある。中でもとりわけ思うのは私が親になった時にこんなに無償の愛を注げるだろうか?という事だ。
私はメチャクチャ良い家庭に生まれたので、愛を一心に受けて育っている。愛してほしければ愛する事が大切とはその通りで、父とも母ともラブラブだ。しかし私は自分の育てた子どもにこういう事を思ってもらえるような接し方をしていけるんだろうか?
最近教育についての本を読んでいる。子どもの自主性や創造性を引き出す方法だとか責任感の育て方だとかが書いてあるが、そんな事よりも愛し合える関係を子どもとどう築けば良いのかが知りたい。皮算用なのはわかっている、子どもを育てる予定はまだ無いのだから。
しかしいざ育てる段階になって愛し合い方を知らなかったら意味がないのだ。味噌とひき肉と同じ、肝心なものが一切無い。また買い物に行くハメになるでしょ。
本買ったりします、『不敬発言大全』が今一番気になっています。