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2019.06.21 お酒を飲んでいるので

宣伝していたやつの本番が終わった!ヤッタ!

直前まで授業として稽古をして、通し稽古なんて二回しかしていないのにもう本番。でもその分慣れていない事がかえって新鮮さとして作用して、なんだか良い感じになった気がする。慣れてないので緊張とか苦戦している感覚が身体に出てしまっているのは良くなかった。

しかし本番前の最後の通し稽古が一番うまく行くのはどうしてだろうね。なんだってそう、いつも本番だけ無難に収まってしまう。

バラシのあと打ち上げで大衆居酒屋へ。何かしら本番が終わると毎回打ち上げに行くのだが、そこでのみんなの会話を聞いていると周りの人たちが絶対全ての苦悩を人生に置き換えて会話しているので、毎回他人の生き方について考える。

自分はいいんですよ、自分の事だから。でも他人って自分じゃないからどう考えているのかわからない部分はかなり多くて、それを理解するための判断材料が打ち上げにはかなり落っこちている。生き方の理解の断片が落っこちるくらいの会話を大衆居酒屋とか駅前ロータリーとかでしてんのって何だってなるが、なにより学校へ同じ志を持って集まった人たちなのにこんなに十人十色を体現するかとちょっと感動さえ持ってしまう。

他人って案外不器用な作りになっている。私は生きる上でそこそこ器用に苦悩を自己解決できる脳の作りなので、他人が悩んでいるとそんなに悩まずにパフェでも食ってようぜと思ってしまう。自身の外にまで漏れ出てしまう悩みは相当なものという事はわかっているので、薄くて浅い人間が口を出すと良くない事が起こると思って何も言わないけど。

今日稽古を見ていて思ったんだけれど、自分と違う考えや意見を受け入れられない人って一定数いる。ハナからの拒否ではなくちゃんと考えた上で「でもそれは私の意見とは違うんだ」という否定を心のどこかでしていて、それが枷になってどうしても飲み込めないという人。そういう人って逆の立場になったとき、自分の中の道理を通そうとするけれどそれが他人にとって無理になるという事がわからないのかもしれない。

大げさに書いているけれどそんなに横暴な話ではなく、私がこう思っているという事は世もそっちの方が正しくあれる、みたいな感じで。
「この映画面白いと思ったけど、みんなも面白いと思うはずだから見なよ」
「そういう服着るのどうかと思うよ」
うん。

ただそういう人から見て私はきっと虚の塊に見えて、話をしてもただの壁打ちになってしまうと感じさせてしまっているんだろうな。何も考えてないわけじゃないんだけど、その考えと私の思っている事に食い違いがあった場合面倒ごとが起きるのが嫌なのでなるべく自分の意見を消そうとしちゃう。でもそれ人によっては良くないよ〜。

自分にもっと劇力(げきぢから)があれば「俺の演劇で理解らせてやるよ」みたいな事できるのにな、今のままだとただ自分の意見を放ってしまっているだけなので。

今日はお酒を飲んだのでこういう事書いちゃったけど、実はもうお風呂にも入って酔いが完全に冷めているのでお酒のせいじゃないけどお酒のせいにするよ。お酒のせいでこういう事書いてるんだ〜。コリャ参った。


分電盤WC→

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