平穏な心

色々なニュースを見ていて、つくづく思うのは、「許す」ことは出来ないものか、という事だったりする。

人を非難して絶対許さないのを見るのはいやなものだ。

自分だって失敗する事は有るよな、と思えばいいだけの事なのではないのだろう か。

そう思えば許せるのではないか、と、思う。

許さないと始まらない、癪に障るけれど、許さないとならないんだろうと思う。

心底頭に来て、怒りに震えていたとしても、心底残念だけど許さないと、どうにもならないんじゃないか、と、思う。

許すのは、人間が出来ているとか、心が広いとか、ではなく、自分の心持ち、気 分の問題だったりするのではないかとも思う。

不幸な人が多いから許さない人が多いのかもしれない。

人間の幸せを過大評価しすぎて不幸だと感じているのかもしれない。

幸せは、そこらへんにいっぱい落ちている。気の持ちようで幸せになれたりする。

小さな幸せを感じれば、「仕方がない」と、許す事も出来るのではないだろうか。

許すのは他人だけじゃなくて、自分だって許して欲しいじゃないか。

絶対許せなくて、相手をぶっ殺してコンクリート詰めにして海にぶん投げるというなら仕方がないが、そうしないのであれば、許すしかないんだろうと思う。


相手がした事の大きさ重さによって許せたり許せなかったりすると思いがちだけれど、これも自分の気持ち次第だったりするのではないだろうか。

そんな事言ったっておまえ、愛する家族を惨殺されて許せると思うか?!という事も有るんですけれど、最終的には自分も安らかになるには、結局は許すしか無いのではないか、と、思うのです。

こうなるともう、宗教か何かの領域になるの かもしれないけれど、、、。


そこまでおおごとなら、俺なんかが口出し出来ないとも思うのだけれど、そこまでおおごとじゃないんなら、許さないと何も始まらないんじゃないかと、思うの です。

なので、とりあえず、愛する家族を惨殺されたとかではなく、

日常の「あいつム カつく」とかいう程度の事なら、許したらどうだろう。

許す事で自分も心が安らぐのではないだろうか。

だから、許しましょうよ。

なんか、キリストはんがそんな事言ってましたよね、、、。

はたちくらいの頃だったろうか、音楽を聴きながらクルマを運転していて、

ちょっ とトランス状態みたいになって人と接触事故を起こした事があった。

といっても、狭い道で、ノロノロ運転をしている状態で、そこに酔っぱらっている相手がぶつかってきた、という感じだったのだけれど。


でも、自分がぼーーーっとして運転していたので、心底これは申し訳ない事をし た、という気持ちになってしまって、病院へ連れていき、それから毎日のようにお見舞いに行ったのだった。


あの頃の自分は本当に純粋で美しい心を持っていたのだなあと感心するくらい、一生懸命お見舞いに行ったのだった。

というのも、自分がぼーーーっとしていた、という事が自分で解っていたから、ああ失敗した、運転している時にぼーーっとしてしまった俺が悪いんだ、と、ほ んとに強く思ったからなのだろうと思う。


今考えると、酔っぱらいがむこうからぶつかってきただけの様に思える、ほんとに軽い接触だったのだけれど、、、、、。


毎日の様にお見舞いに行っているうちに仲良くなってしまって、すっかり許して貰えたのだった。

許して貰うには、謝り方の問題も有るのですね。

今考えると、なんという美しい心を持った青年なんだろう、とても今の自分と同一人物とは思えない、という感じがします。


本当に自分がぼーーっとしていたのが悪いんだと心底思って二心無く毎日お見舞いに行くという、、、。なんか、ほんとに素晴らしい。


この、若き日の自分をお手本にしたいものです。

俺がぼーっとしていたのが悪いんだ、と思って心底申し訳ない気持ちになった心は美しいなあと、思います。

うん、若き日の自分は美しかった、褒めてつかわす。

それに引き替え今はどうじゃ、とか、そういう事もございますが、

心の平安、静かな心、優しい心でいたいものだと思います。


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