世の流行などに背を向けて当時も生きていたので

 急に思い出したので記しておくnoteにするまでもない(……と思ったがこんなもんでもなんかの資料や記憶の呼び起こしになると思って転載の上、加筆する)。
 大学院入学以降の生活費は自分で稼ぐしかなくなり、バイトを探した。
 当時はいいバイトがあった。予備校講師塾講師は破格の時給だった。大学時代は夏季冬季春季の休みは全て実家に帰っていた。大学院一年目の夏は帰省もしないし東京でどうせ過ごすのだから、と、バイトをフルで入れてもらった。朝九時から夜の十時まで基本しゃべりっぱなし、帰宅後は冷房のない木賃アパートで過ごした。そこそこのバイト代をもろうていたのになぜ引っ越さなかったのか、これはカワイのケチな性格と、あの当時の不動産バブル、はじけた後も風呂付ワンルームのしょぼいやつで6万以上とってたので、ばかばかしいからトイレ共同の木賃アパートで過ごしていた。。

 好景気だった学部時代、私のようなところに住んでる地方出身者の学生は少なかった。みんなバイトして高い家賃の人気の沿線に住みたがってたし、住んでた。そういうのに背を向けて私はその時代を過ごした。そのうちバブルが崩壊した。

 バイトをフルで入れてもらって朝九時から夜の十時まで基本しゃべりっぱなし、百キロにかなり近かった体重がその仕事の間の夏季講習系の期間たった一ヶ月半で15キロも落ちた。自分でも驚いた。
 バブル崩壊後も引き続いて、東京でのそれら講師アルバイトの時給は高いままだった。ずっと高額だった。60分換算で7~8000円もろうておった。ここだけは景気のよさがずっと続いているのだなあと思った。二十代のガキの私にはちょっと思いもつかない報酬だった。そもそもケチで浪費家でもなく、世の流行などに背を向けて当時も生きていたので金を使うところもない。使う場所は神保町くらいだった。預貯金はどんどん貯まっていった。しかもまるで使わない。酒を飲まない外食しない。バクチもしない…ああこれだけは違う、2年間くらい、競馬競艇オートレースに通った。それぞれに詳しくなった。競輪場には一度だけ行った。ちょっと遠いのでその一回だけだった。住んでるところからの距離で馴染みのバクチ場は決まるのかもしれない。パチンコとスロットはまるでしなかった
 あの時いっぱい高い本を買った叢書をかった。何度も書くが高いものは若いうちに買うておくのがいい。それらを使う残り時間が潤沢にある。と昨夜寝る前に思い出しながら、母が死んだ後の札幌での仕事探しの話に移る……いや、書きだした当初は、母が死んだ後の第二次ダイエット生活の話だった。着地点を見失いながら、つづく。

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