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マーベル・ウィン(神)/七夕最強助っ人

1991年に鳴り物入りでって、なんだか鳴物入りばかりが入団している訳だが、阪神にあの高橋慶彦がやはり鳴り物入りで入団した。

常勝カープで1番を張っていた男が、巡り巡ってなんの因果か阪神タイガースにやってきたのだ。

だがオープン戦の始球式で、高橋慶彦は山田雅人からデッドボールを受けたことがきっかけで調子を崩し、一年を棒にふることとなる。

これは阪神恒例の「杖とも柱とも頼る助っ人ないしそれに類する選手が不調に陥ったらハイそれまで」かと思われたが、この年の阪神は一味違った。

マーベル・ウィンというバリバリ現役メジャーリーガーがあのオマリーを鞄持ちにして来日していたのだ。


俺の名前を言ってみろ

伊丹空港に降り立った褐色のマーベル・ウィンはさすがメジャーリーガーといった落ち着きで記者会見に挑んだ。

おっとここでは、大急ぎで注釈を取り付けなければなるまい。

1991年に関西国際空港はすでに落成していたが、国際線も伊丹空港中心のダイヤが色濃く残っており、この時ウィンとオマリーが降り立ったのは伊丹空港だったのだ。

伊丹空港を舐めるなっ。

週刊少年ジャンプが土曜日に買えるのは関西圏では伊丹空港だけやったんやっ。



「抱負を教えてください」



唐突に、
記者からプリントごっこで印刷された年賀状のような質問がウィンに投じられた。
ウィンは眉間の皺をゆるめながらセリフをつむいでいった。



「俺の名前を言ってみろ」



記者席は一転して騒然となった。
ここでも大急ぎで注釈を取り付けなければなるまい。

「俺の名前を言ってみろ」とは大人気漫画「世紀末救世主伝説・北斗の拳」作中においてモブキャラの皇帝・ジャギがいった台詞まんまのパクリだったのだ。

これはウィンの日本への適応能力を示すエピソードと捉えていいのか、はたまた偶然って怖いという逸話にすべきなのか判断に迷うところだが…

ここは流れからいって「ウィンは来日時に既に大人気漫画である世紀末救世主伝説・北斗の拳の名台詞をソラで語れるほど日本に適応しており、バース並みの活躍が担保されていた」と言の葉をつむいでおこう。

「抱負」に対して「俺の名前」。
「俺の名前」ということは「ウィン」。
「ウィン」ということは「勝利」。
「勝利」を拡大解釈して「優勝」。

このようなアナロジーが効いて、「落合博満ばり」の「優勝請負人」が「阪神なんかに」やってきたと記者席は騒然となったことにしておこう。

こうして1991年のペナントレースにおいて阪神は前途洋々たる滑り出しを魅せた。



三拍子揃ったメジャーリーガーのジンクス

有史以来三拍子揃っているメジャーリーガーが日本で活躍した試しはない。
このマーベル・ウィンも「三拍子揃っている」という触れ込みで来日した時点で相当に危ない橋に差し掛かっていた。

だが、当時ネットはなかったもんで、そのフラグに気づけるもんはおらなんだでな。

打って、走って、守って、、
これが三拍子の|原理原則《プリンシパル〉だがウィンの場合は後者2つは相応にクリアー出来ていた。

惜しむらくは「打って」という助っ人に最も求められる素養が欠けていたことだ。


マーベル・ウィン
日本プロ野球(NPB)在籍1年 91年
123試合 打率.230 13本塁打 44打点 6盗塁


今見るにつけ、なかなかやっているようにも思えるが、どうにもこうにもこの時点ではバースの残像が色濃く残っておりこの程度の成績では満足できなくなっていたのだ。

因みに打率.230はこの年の規定打席到達者の中でダントツの最下位なのでやっぱダメかもしれんね。

だがこのマーベル・ウィンは見せ場をつくってから帰国することとなる。



七夕の奇跡

これはオールドな阪神ファンにはお馴染みのエピソードだろう。

1991年7月7日東京ドームで行われた巨人ー阪神戦。

天敵・桑田真澄が阪神打線の前に立ち塞がる。

因みに当時阪神には108人の天敵がいたが、その中でも桑田真澄はSクラスの天敵でありホンマもんの天敵だ。

幽遊白書の読み過ぎでこんなんなってもた。

この日も桑田は絶好調。
リズムの良いテンポで阪神打線を手のひらで踊らせていた。

だがウィンのバットが、
意地が、
怒りに勝る執念が、
12回の表に七夕の願いを叶える。

東京ドーム最上段に推定飛距離180メートルのホームランが瞬いては消えた。


こうしてメジャーリーガーの矜持を桑田真澄に注入したウィンは、
阪急神戸線・塚口駅徒歩圏内の大型ショッピングモール「つかしん」にて悠々とショッピングにいそしんでから、伊丹空港へと姿を消したと記憶は語る。




オマリー、カバン持ちから真打ちに

マーベル・ウィン自体は一年で帰国する、典型的な「1年御免型」の助っ人だったが、
91年に同時来日を果たしたカバンもちのトーマス・オマリーが「当たり」だった。

このオマリーの打棒が、翌92年の阪神快進撃を演出することになるのだ。

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