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最初だけスキして後は放置するフォロ男の末路

来た、見た、勝った、とはローマ帝国皇帝カエサルの言。
翻って、
フォローした、スキした、然るのち放置するという暴虐がnoteにおいて幅を利かせている。
フォローしたからスキしなければならないという道理はない。
また逢瀬ありて幾度かスキをしたからといって、スキンシップの継続はマストだという謂れもない。

だがどうだろうか。

確かにスキは想いを伝える手段であり、決して最終的な目的にはなり得ない。
スキを目的にしてしまえば、それは手段の目的化の誹りは免れない。
しかしスキをすることで、スキが体内をめぐることでnoteという母体が拍動している。
この簡にして要を得たプリンシパルを忘れてはいないだろうか。
故に幾度かスキをした後、相手がスキ返しの奴隷となったのを見計らい放置に転ずる。
これはnoteに対する冒涜ではないか。

いや敢えて問い治そう。

フォローした、スキした、然るのち放置するという一連のプレーはnoteへの侵略戦争ではないか、、と。

我々は先の大戦から多くの示唆を得たはずだ。
だが本当に総括の末に示唆を見出したのであれば、何故このような侵略戦争が繰り返されるのだろうか。
かの大戦の末路に我々を待っていたのは何だったのか、再度胸に手を当てて問いなおすべきではないか。


戦争の50%は、後世の歴史家が呆れかえる理由で起こった、
戦争の残り50%は、当時の人々すら呆れる理由で起こった。

これは田中芳樹の箴言だが、オンライン上では我々が呆れかえる理由でいままさに戦争が繰り返されつつある。
我々はカエサルフォロ男の暴虐に怯えているのだ。

ところで冒頭で引いたカエサルの末路はどうだったか。
ブルータス、、お前もか、、、だったのではないか。


だから、
だからこそ、
冷静なフォローと持続可能性のあるスキが求められている。

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