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逆襲のシャアrevenge of revenges

機動戦士ガンダム逆襲のシャアは88年に公開されたアニメ映画であり、大ヒットを記録したテレビアニメ・機動戦士ガンダムならびにZガンダムの続編だ。
この「テレビアニメからアニメ映画へのコンテンツ展開」というものはそれまでも数多なされてきたが、これほど興行として成功したケースはなかったのではないか。
それほど逆襲のシャアは大人気を博した。
本日はこの逆襲のシャアについて語っていこう。

主人公はシャア・アズナブル

主人公はシャア・アズナブル。
ここは諸説あるところだが、「この世は舞台、行き交う人はみな役者」と言ったものであり主人公なんぞは観るものが決めれば良いのだ。
要は誰に感情移入してみるかの問題であって、私に言わせれば「誰がアムロ・レイなんぞに感情移入するかっっ」となる。

だから私の場合、主人公は勢いアムロ・レイ以外の誰かになる。
そしてこの「逆襲のシャア」の場合は、タイトルにある通り「シャア・アズナブルのリベンジ」が大テーマとなっているから、好むと好まざるに関わらずシャア・アズナブルの視点に立って作品を観てしまう。
よって主人公はシャアになるという寸法だ。



シャア・アズナブル//ホメイニ革命の余波

この主人公のシャア・アズナブルという姓名。
実はこの姓名はこのコンテンツが生まれた時代と大きく関わっている。
機動戦士ガンダムは1979年に製作された。
その前年1978年1月に勃発したホメイニ革命
によってイランは一気に反米サイドに雪崩れていった。
そしてイランという国家はペルシア帝国の後継であり、中東にありながら他の国家とはまったく異なる言語体系を堅持しているのだ。
ひいてはペルシア帝国ならびにイランでは「皇帝」のことを「シャー」と呼称する。

つまり「シャア」には「皇帝」という含意が隠されていたのだ。
機動戦士ガンダムにおいて、シャア・アズナブルは謎の仮面をかぶり身の上を隠し
ジオン公国の一人のパイロットとして参戦する。
だが劇中で明らかになるように、シャアはかつてジオンを創設した人物の落胤であり、つまりは「皇帝」であることが物語のたけなわで判明するのだ。

このように1978年に勃発したイランのホメイニ革命は1979年に放映された機動戦士ガンダムに大いに影響を与えている。
製作者サイドにはホメイニ革命を支持し、反米の気概があったのではないだろうか。
当時、冷戦の真っ只中であり知識人やメディア関係者の中にはコミンテルン国際共産主義支持者に共鳴するものが数えきれない程いた。
そうした残滓がガンダムの設定の中に垣間見れるのだ。



行け!アクシズ!!忌まわしき記憶と共に!!!

逆襲のシャアに話を戻そう。
劇中大詰めでシャア・アズナブルが吼える。



「行け!アクシズ!!忌まわしき記憶と共に!!!」

このセリフは心底カッコ良いと思った。
言葉の意味はわからんがとにかく凄いナルティズムだ。

ガンダム作品を時系列で並べると次のようになる。

機動戦士ガンダム 80年ごろ
Zガンダム     86年
逆襲のシャア         88年

この一連の流れの中で機動戦士ガンダムを観た者は多いが、Zガンダムを観た者はそれに比してあまりに少ない。
逆襲のシャアは機動戦士ガンダムからZガンダムの経緯を踏まえて作られているから、当然Zガンダムを観ていないとわからない部分がある。
だがZガンダムは不人気とまでは言わないが、ガンダム人気が一服ついた後に製作されたテレビアニメであり、しかも趣味の多様化が起こってきた86年の作品であるため観ている分母が少なかった。
要は鳴かず飛ばずの作品だったのだ。

しかし逆襲のシャアは「ガンダム完結」というニュアンスで宣伝がなされていたものだから、機動戦士ガンダムを観た団塊ジュニア世代はこぞって映画館に運んだ。
Zガンダムを観ていないものもこぞって映画館に足を運んだのだ。


「行け!アクシズ!!忌まわしき記憶と共に!!!」


Zガンダムという鳴かず飛ばずの続編が忌まわしき記憶だ、、そう製作者サイドが云っているように聴こえるのは私だけだろうか。



赤から琥珀へシャアと冷戦の変遷

79年に放送された機動戦士ガンダムにおいて、シャアは赤色の衣装やモビルスーツを愛用する。
だが88年の逆襲のシャアにおいて、シャアは琥珀色の衣装を好むようになっている。
これも東西冷戦の推移が影響しているのではないか。
79年時点では東西陣営のどちらが勝ってもおかしくはないという観測が強かった。
わけてもホメイニ革命によってイランという中東の大国がアメリカを離れソ連側に歩み寄った。
このことで冷戦は大きくソ連側つまり東側にパワーバランスが振れたといえよう。
だから機動戦士ガンダムにおけるシャアの衣装は赤を前面に押し出しており、モビルスーツも真紅に染まっているのだ。

だが逆襲のシャアが公開された88年になると、ソ連の疲弊がもはや隠しきれなくなっていた。
だからシャアは赤ではなく琥珀へと衣装替えをおこない逆襲を敢行するのだ。



beyond the time

逆襲のシャアだけではなくガンダムシリーズ全編にかけて音楽がすこぶる効果的に用いられている。
ガンダム由来の名曲というのは枚挙にいとまがないほどだ。

私が逆襲のシャアを劇場で観たときはさして思わなかったのだが、
いま聞きなおしてみると、やはりすこぶる良い曲だ。
「beyond the time」はTM NETWORKの楽曲である。
小室哲哉の作品といった方が通りが良いかもしれない。

原曲はTM NETWORKであり逆襲のシャアで用いられていたのもTM NETWORKバージョンである。
だがしかし、
私の断然イチオシは最近カバーで登場した森口博子バージョンだ。

うまいっ‼︎
あえてテンポを少しづつ遅らせていき、余韻をつくりだす。
これは本当にうまいっ!!!
しかもテンポの遅らせかた自体をさらに遅らせていくという芸の細かさ。
テンポのミリ2回微分で勝負している森口博子は素晴らしいっ!!!



原典オリジナルの雰囲気を守らなければならないのか?

よくカバーされた曲やリメイク作品に対し、「オリジナルの雰囲気が台無しだ」「世界観が違う」、という批判の声が飛んでくることがある。
だがそれはお門違いな言い分だろう。
なぜならばオリジナルが優れているという保証はないし、もしそうであってもオリジナルの世界観を守らねばならないという掟はない。
時代錯誤になって現代には伝わらない表現や設定ないし価値観は刷新されて然るべきだ。
ましてやオリジナル作品が元々劣っていた場合にはその刷新ベクトルがさらに強くなる。

上記した森口博子バージョンのbeyond the timeは、刷新して劇的に名曲になった好事例だ。



作品を小さく規定する音楽の罪

逆襲のシャアにおいてエンディングで流れるTM NETWORKの原曲にこそ実は問題があったのだ。
TM NETWORKのbeyond the timeが逆襲のシャアの世界観を創ったといえば聴こえはいいが、作品をこじんまりと規定してしまったとも言える。

「我々が建物をつくる。然る後、建物が我々を規定する」とは大英帝国宰相チャーチルの箴言である。
これをモジれば「我々が映画を作る。然る後、映画が我々を規定する」と出来る。

逆襲のシャアは確かに秀でたアニメ映画だ。
だが映画館で鑑賞してどうにもしっくりこなかった部分がある。
それは最後の最後で流れるTM NETWORK/beyond the timeだった。

ここに激しい違和感を覚え、私はガンダム世界から離れてしまったんだ。
TMNのbeyond the timeが規定して枠に嵌めようとする我々にどうもワタシは我慢ならなかったのだ。

どうにも「逆襲のシャア本編」と「TMNのbeyond the time」が認知的な不協和を起こしていたように思う。
よくあるではないか。
映画やアニメの内容とはまるで相容れないような音楽がエンディングで流れてくるケースが。
「あれ自分の解釈とは違うぞ」という感慨を抱く程度ならばまだ軽症。
「コンテンツがぶち壊しじゃねえか」という重症患者が多く見受けられる。

この先駆けが「逆襲のシャア」だった。


作品を大きく規定する音楽であれ

エンディングの音楽が作品世界を小さく規定すると、視聴者の解釈の幅を狭くしてしまう。
観るものの教養水準は多種多様であるから解釈もおよそ千変万化だ。
そして観るものの解釈とは異なる音楽が流れると「駄作」のレッテルが押されてしまう。

だから音楽わけてもエンディング音楽というものは、「広い解釈が可能な音楽」「大きく作品を規定する音楽」、でなければならないのだ。

その点において、この逆襲のシャアのエンディングにピタリ当てはまる曲がある。
それが先述した「森口博子バージョンのbeyond the time」だ。

作品公開が1988年でありそれから35年をへだてて良き伴侶が見つかったといった感である。
しかも同じ「beyond the time」という楽曲でありなんとも数奇な現象だ。

この「森口博子バージョンのbeyond the time」はまずそれ自体が解釈に幅を持たせた作品に仕上がっっており、関連するコンテンツを大きく規定することができる名曲だと言える。
だから私は「森口博子バージョンのbeyond the time」を推すのだ。



コロニー落としというrevenge

ガンダム世界わけても逆襲のシャア劇中において「コロニー落とし」という概念が中心に据えられる。

では、
この「コロニー落とし」とはいったいなんのメタファなのだろうか?

コロニーとはガンダム劇中世界で人工的に浮かべた宇宙植民居住地だ。
地球に住まうエリート人類は邪魔な存在となった他の人類を半ば強制的にコロニーに移住させた。
このコロニーへの移住民たちが復讐のため、自らのコロニーを地球へと落としエリートたちに意趣返ししようとする。
これが劇中における思想の大まかな流れである。

これはガンダムが流行った1979年〜1988年のリアル世界に照らし合わせれば、
「植民地の人々が欧米列強に対して復讐を成し遂げる」とアナロジカルに捉えることが出来よう。
わけても1978年に起こったホメイニ革命は親米であったイランのアメリカ離れを誘発し、中東から欧米への原油供給が激減し、1979年の第二次オイルショックを引き起こした。
つまり機動戦士ガンダムからZガンダムひいては逆襲のシャアへとつむがれていく一連のガンダム作品は、「欧米列強によって植民地支配されていた国々のrevenge 」のメタファになっているのだ。



コロニー落としというrevenge of revenges

この1988年は日本経済が絶好調であり、早晩アメリカを追い抜くのではという観測が強かった時期である。
いわゆる「ジャパン・アズ・ナンバーワン」の時代だ。

(※『ジャパン・アズ・ナンバーワン』(原題:Japan as Number One: Lessons for America)は、社会学者エズラ・ヴォーゲルによる1979年の著書)

この時期において日本は、そして日本の知識人をはじめメディア関係者は「アメリカに復讐する時がついに巡ってきた」という思いを強くしていた。
「原爆落とし」という戦時国際法違反どころか人間としてやってはならない大罪を犯したアメリカに対する復讐だ。
逆襲のシャアをはじめとするガンダム作品で描けれているコロニー落としというものは、「原爆落とし」という有史以来最も残虐な行為に対するrevenge of revenges意趣返しのメタファであったのではないか。



かっこよく俗なシャアというRevenge of Revenges

だがそんな小難しいことは抜きにしても、逆襲のシャアは面白い。
内容なんてよく分からなくても面白い。
それが娯楽コンテンツの真髄であり、それが逆襲のシャアには含有されている。

逆襲のシャアで言えば、それはシャアの相剋をともなう格好良さだ。
声は特級品、目鼻立ちも絶世の色男、政戦両略の秀才にして銀の匙を咥えて生まれてきた王子様だ。
だが、どこかマザコンでどこまでもロリコン
という俗極まりない男の部分も併せ持つ。

そうした人物の仮想体験をできる。
それだけでもいまこの作品を観る価値はあるはずだ。 

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