ロブ・ディアー(神) 三振の流儀
1994年オフ、広くなった甲子園で長打力にあえぐ阪神タイガースは助っ人大リーガーに活路を求めた。
巧打者であるパチョレックを解雇してまで、長打を秘めたパワフルヒッターに食指を動かしたのだ。
こうしてバリバリ大リーガーの「ロブ・ディアー」「年俸2億7000万円」うんぬんが在阪スポーツ紙の一面を賑わすことになった。
だがこの1994年はWindows95の販売前年でありインターネットが普及しておらず、ディアーが1991年に大リーグで残した「.179というシーズン最低打率記録」に気づけるもんが誰もおらなんでの。
ディアーネット誕生
晴れて阪神タイガースの一員になったディアーはいきなり大活躍を魅せる。
春季キャンプ地である安芸市営球場で快打を場外に連発し、周辺住民を守るため特別ネットが敷設されたのだ。
誰が呼んだか、、、
「ディアーネット」の誕生である。
「甲子園球場で場外ホームランが見られるだろう」
といった熱気にほだされた希望的観測が飛び交う中でシーズンが開幕した。
神様ブライアント超え
シーズンに入ると春季キャンプでの飛距離はすっかり影をひそめ、打率は2割をわったまま浮上の素振りすら見せない。
その代わりと言ってはなんだが三振を量産し始めたのだ。
しかも驚異的な勢いであり、あのラルフ・ブライアントが持っていた記録を圧倒する.396というハイ三振率を残すこととなる。
ピッチャー並みの打率の助っ人にたいし、中村勝広監督は「いつか打つだろう」という鷹揚な態度で温かく見守り、堅忍不抜の精神でディアーを使い続ける。
ロブ・ディアー
95年 阪神タイガース
70試合 打率.151 8本塁打 21打点 76三振
ムードメーカーとして獅子奮迅
95年も夏の声を聞き、さしものディアーもベンチを温める時間が増えてきた。
ベンチで大リーグ時代より親交のあったトーマス・オマリーと談笑する場面が散見され、
「オマリーの話し相手」として給料分の働きをしていると揶揄されることもあった。
8月に右手親指靭帯断裂で帰国し、そのまま退団となる。
大リーグでも偉業達成
帰国後サンディエゴ・パドレスに出戻ってもディアーのバットは空を切り続ける。
翌1996年は50打席で30三振を記録し、規定打席未到達ながら「三振率.600」という金字塔を打ちたて優秀の美を飾る。
名伯楽ディアー
引退後、マイナーリーグで後進の指導に精を出し、
「オレのようなスイングはするな」を口癖に打撃指導をおこない好評を博した。
神々の黄昏前夜
ディアーは阪神タイガース助っ人史における分水嶺だといえる選手だ。
ディアーが来日したのは1995年であり、それまで紛いなりにも阪神の助っ人選手は活躍してきた。
パリッシュ、マーベル・ウィン、オマリー、パチョレック、郭李・・・90年代の助っ人をざっとあげても相応の活躍は担保されていたのだ。
それがディアーの.150というあまりの体たらくぶりにより「助っ人」という概念がゲシュタルト崩壊を引き起こしてしまった。
ここから「打ってクレイグ頼んマース」でお馴染みクレイグ、マースという神頼み助っ人コンビ。
ひいては神繋がりで神のお告げ芸人たるグリーンウェルへと、(神)の神をめぐる戦いは混沌の度合いを増していくこととなるのだ。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?