読書を知らない老人/嗜む若者/進む、知の老眼
読書百遍義自ずから通ず
「読み書きをしているうちに、人間にとって大切なものが自然と身に付いてきますよ」
という含意。
読と書というものは、人間をつくる上で非常に大切なものだという教えである。
読書は「読む」だけなのか?
だが、毎日新聞さんの下記記事によれば、
日本人の読書時間が少なくなっているようだ。
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「月に1冊も読書しない」が6割超 進む読書離れ 国語世論調査
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なるほど、
どうやら1ヶ月にまったく本を読まない人の割合が6割を超えたという趣旨の記事だ。
だが、どうだろうか。
毎日新聞さんの記事をよく読めば、
読書の定義が「本を読むこと」だけに圧縮されている。
「読書=本を読む」を前提に論が進んでいるのだ。
読書は「本」だけなのか?
この「読書=本を読む」という等式には大きく2つの問題があるように思う。
まず1つ目が、本来の読書とは読むだけではなく書くも含有したものであること。
次に2つ目が、「読む」の中には「本」以外のものも含めるべきであること。
本を読むというのは、読書のホンの一部分であり、世界には他にも無数の読書がある。
例えば、
インターネットで贔屓のブログを読む。
例えば、
インターネットで意見をSNSに書き込む。
例えば、
インターネットで音楽を発信しつつ文章で説明書きを加える…
といった具合に、読書機会は以前にまして遥かに増加している。
若者たちは老人より遥かに、幼い頃から読書をする機会が増えているのだ。
闘うSNS 2ちゃんねる
インターネットの出現によって、
若者は読むだけでなく、書く機会すらも飛躍的に増加している。
これは凄いことだ👍
私は大学生の頃にインターネットが出てきたものだから、
オンラインでさまざまな文章を読むことはできても、
書くことは闘うSNSたる「2ちゃんねる」ぐらいしかなくて、敷居が斜め250度の方角に傾いて高く、奥手の筆者には書けなかった。
だから、オンライン上で円転滑脱に読書をしている若者が羨ましくてならない
何かと批判の矛先を向けられがちな現代の若者だが、挫けてはならない。
インターネットの存在を鑑みれば、
「読む」機会だけに限っても、若者は老人を上回っている。
「読む」と「書く」を合わせた「読書」機会に至っては、若者は老人を圧倒凌駕している。
読書の意義
筆者はよく読書をするほうだ。
と言っても、典型的な「書く」偏重型読書である。
「読む」はリアル書籍だけに限れば、1年10冊で100万文字程度。
「書く」は1年で300万文字程度。
この読書バランスは手前味噌かもしれないが、理想に近いのではないだろうか。
100万文字を読んで、300万文字を書く。
会話において人の3倍喋るのは人間関係構築においてよろしくないが、
読書において読むの3倍を書くに充てるのは迷惑にはなるまい。
書くことは、読んだことや体験したことを吟味してより深い気付きに昇華させるための優れた行為だ。
インプットするだけではダメ、アウトプットを伴って初めて知恵を養える。
人に伝わらない「優れた思い込み」では世界は何ら変わらないのだ。
優れた思い込みからの脱却
インターネット前において、読書が「読」に偏っていた。
だから老人は「優れた思い込み」の名人ばかりだ。
読んではいるが、不特定多数に伝える機会が皆無だったからだ。
読書が「読」に偏っていたのには理由がある。
インターネット前においては、不特定多数に対し書く機会というものが圧倒的に少なかったからだ。
だが、今は違う。
特に今の若者は、幼い頃から「読んで」「書いて」「伝える」機会に恵まれてきた。
「優れた思い込み」はこの環境下で淘汰され、やがて「客観的に優れた文章」だけが生き残る。
老人の時代に比べ、
間違いなく読書の質も量も上がっている。
読書百遍義自ずから通ず
読書は「読むこと」だけ。
読書を「本」だけ。
こうしたアウトプットをしていては、あまりにインプットが不憫だ🥴
世に溢れる哀れなインプットを救い出すため、
私たちはアウトプットすなわち「書く」を含めて読書を観なければならない。
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