謎な自由意志論


思い立って、カントの『実践理性批判』なる本を読んでいるのですが、そこに書かれている自由意志論がなかなかに謎ですw

当時は決定論的世界観が広まっていたこともあって、カントもすべてが自然の摂理(法則)によって決定している世界を想定しています。

にも関わらず私たちは自由である、とカントは言います。

一般的な意味での自由意志とは非決定な世界の中で、主体的に道を選んでいくことですが、これだと決定論とは相いれません。

ということは、カントは普通とは違った意味での「自由」を考えていることになります。

うーむ、謎だw


どうやら、彼は道徳的な規則に従うべきであるという要請の中に「自由」を見ているようです。

たとえば人が何か道徳的に良くない行いをしたとします。

すべてが自然法則に従って起こっているのならそれも法則によって決定された行いなので、倫理的な善悪は意味を失うと考えられます。

それでも良心の声は「よりよい行いをすべきだった」と呵責します。

それはあたかも、他の行為の可能性があったかのような前提のもとであえてその(良くない)行いをしたかのような帰責のしかたです。

カントはこの良心の声(ないしは道徳的規則)がよってたつ仮想的な行為の自由をもって「自由」であると規定します。


この仮想的な自由の存在する世界をカントは「可想界」と呼んでいます。最初の字が「仮」ではなくて「可」になっているので要注意w

私たちは自然法則に支配されたこの世界(感性界)に属すると同時に、そのような制約のない可想界にも属していて、感性界の住人としては自然法則に規定されて決定した行いしかできないのだけれど、可想界の住人としてはそのような制約のない自由な存在なのだ、ということになっています。

……ますます謎ですw

別の場所でカントは、自らの立てた道徳的規律に従うことの中に自由を見出す考えを述べていますが、ここでの自由はそれと連関しつつ微妙に違った概念になっているようですね。

規律に従えなかった時にも「自由」であると言っているのだから。


ともあれ、良心の声は可想界の住人としての自由があるという(仮想的?)前提のもとで私たちの行いを帰責します。

そのように(自由であるかのような)感覚をもっていること、まさにそのことをもってカントは私たちが「自由」であると規定ないし定義しているようです。

しかし箇所によっては文字通り、非決定的な自由があるともとれる記述もあり、読めば読むほど謎な本です。

もう少し読んでからまた感想を書こうと思います。

ではでは☆


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