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ピアノはロボットのように弾けばいいというものではないらしい

ムスメのピアノの発表会に行ってきた。

ブルグミュラーという作曲家の曲をみんながひくというイベントだ。ピアノを知っているひとにはよく知られている。

ムスメは3ヶ月くらいかけてこの課題曲の練習をしていた。はじめは音符の数が多すぎてこんなんひけるわけがないとなかなかモチベーションがあがらなかったようだけど、ゆっくりでも通しでひけるようになってからはちょっとずつ練習をするようになった。

ピアノは楽譜の通りに演奏することが大事だ。ひとつひとつの音の長さが決まっていてロボットのように正確に演奏できるように練習をしていく。型を身に着けるのに必要な表現が完璧に開発されているのがすごいと思う。

・・・と思っていたんだけど、そうでもないらしい。

再現性を高めようという先人たちの情熱はすごいなと思って、興味がわいたので少しネットでも調べてみたら、ぼくの知らない世界がその歴史ぶんぶわーーっと広がっていたのだった。

ショパンやバッハといった作曲家推し?のひとたちがいることも知った。
そして、ピアノは楽譜通りの演奏でもダメで、曲によって推奨とされるひきかたも違うらしいのだ。

ショパンは感情表現が大事でバッハはこうひきたいという欲求を捨てなければならない、みたいな一言で語れないニュアンスがあって、これらは表現として求められるスタンスが違うものらしい。

おまけに曲が生まれた頃の楽器のコンディションも配慮に入れる??みたいな情報も出てきて、バッハの時代の楽器の特徴として音の切れがシャープじゃないので演奏時も音が切れないようにひくべし、といったものがあるらしい。

反省、、そんなん楽譜にするの、、、無理やん、、、

ということで音楽の世界はある程度までは楽譜で表現できるんだけど、そこから先の部分はかなり余白があって、専門家や愛好家のかたたちが表現について追及する世界が存在する。

「ほうほう、今の響きは非常に客観の立場からの表現ができておるのう」

こんな会話が起こっているらしい。

優れた音楽というのは、その完成度から後世に残っているというのは一般人のぼくにも想像がつく。

けれど、みんなで表現を味わおう、テーマにあった表現に挑戦してみようという上流世界の娯楽コンテンツとしての魅力も存在したことが、別の理由としてあるのだろうな。

そういうものを芸術というのかもしれない。奥が深いぜ。文化の秋。

さて、ムスメは練習の成果を発揮して相当スッキリしたらしい、明日から違う曲の練習ができるという解放感で謎の舞を披露していた。

ぼくは音楽にふれてほしいという気持ちでムスメにピアノ教室をすすめたんだけど、いつのまにか正確さを追求するような楽しみかたに視点が偏っていた。それだけではもったいないのだ。ロボットと同じだもの。

人間が芸術を愛するその中心的な部分について、今はまだ余白としか表現できていない「何か」について早くムスメと語れるようになりたいなと思ったのでした。

それでは今日はこの辺で。
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