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幼い頃から耳になじむ祖父の笛の音を追いかけて

川越まつりの、祭り気分を盛り上げてくれるのは、なんと言っても軽やかな囃子の音色。絢爛豪華な山車の上で囃される太鼓や笛、楽しげに踊る面をかぶった踊り手は、川越まつりをさらに華やいだものにしてくれる。

「川越の囃子は優雅なんですよ」と、川越市囃子連合会会長の宇津木二郎さん。他の祭礼の囃子に比べて現代風のアレンジがされておらず、テンポがゆっくりで落ち着きを感じられるためだ。

宇津木さんが所属しているのは、芝金杉流の「今福囃子連」。川越まつりでは、明治時代から六軒町の「三番叟の山車」に華を添えてきた。祭りではどんな点に注目すればいいだろうか。

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川越の祭り囃子は優雅な印象

川越の祭り囃子は、大別して「王蔵流」「芝金杉流」「堤崎流」という3つの流派がある。構成は、笛1、小太鼓2、大太鼓1、鉦1で、必ず舞方(踊り)が付くのが特徴だ。現在、市内の囃子連や保存会などの団体は39を数える。

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宇津木さん:祭り囃子は口伝のために資料が少ないのですが、香取明神(現在の東京都葛飾区東金町にある葛西神社)から「葛西囃子」が生まれたと言われています。また、江戸時代後期の神田祭の山車の上で囃される囃子が、総称して「神田囃子」と言われてきたと思われます。そして、葛西・神田系の囃子が伝播する中で目黒・相模(神奈川)系の囃子が生まれたと思われます。

江戸後期から明治時代の初頭にかけ、主に中山道を通して葛西・神田系が、甲州街道を通じて目黒・相模系のお囃子が川越に入ってきました。

現在の神田囃子と川越の囃子を比べてみると、囃子のテンポに違いを感じられると思います。現在の神田囃子は明治初年、神田明神の氏子により粋に洗練され確立しましたが、川越の祭り囃子は神田囃子が確立する一時代前のお囃子がもとになっているので、ちょっと泥くさい。それでいてスピードやテンポがゆっくり目なので、優雅な印象です。お祭り好きな方であれば、まずは他のお祭りで囃される囃子との違いを感じてもらえればと思います。

川越囃子だけ見ても、3つの流派に違いがあります。テケテンとかテンツクテンと太鼓を打つリズムやテンポが、口伝の文句が異なっている。それが聞き分けられるようになる頃には、もう立派な川越まつりのプロですね(笑)。

ちなみに私が所属する今福囃子連では、「曳っかわせ」での楽曲が「シチョウメ」という楽曲。祭りのクライマックスにふさわしく、テンポが早く祭り囃子の技法が堪能できます。囃子と囃子の競演の場にぜひ注目してみてください。

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囃子に合わせてスウィングする外国人の姿に感激した

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川越市囃子連合会は、1972年(昭和47年)に設立。初代会長は、宇津木さんの父が務めた。現在、宇津木さんが5代目の会長に就いている。宇津木家ではかつて祖父が笛を、父と兄が小太鼓をやっていた。

川越市役所に勤務していた宇津木さんは、20歳過ぎに父から促されて祖父と同じく笛を練習するようになった。祖父が指導した弟子を師匠と仰ぎ、間接的に祖父の薫陶を受け、技術を受け継いでいる。

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宇津木さん:私の住まいは川越市街から離れていたので、幼い頃の祭りの記憶はあまり定かでありません。でもひとつだけ覚えているのは、川越まつりを訪れた小学生の頃のこと。

自分がいた場所から山車は見えなかったのですが、姿はなくとも囃子を聞いて「六軒町の山車だ! いま◯◯町のあたりにいるな」と見当がついたんです。すぐ裏道から音を追って、六軒町の山車を見に行ったりしていました。

なぜわかったかというと、六軒町の山車では祖父が笛を吹いていたから。私はおじいちゃん子で、祖父は私をよくおんぶしてくれていました。祖父は私を背負ったまま畑道に出て、笛を練習していたんです。その音色やリズムが耳に残っていたんでしょうね。

私自身が山車に乗った川越まつりで印象深かったのは、ある年の曳っかわせの時のこと。4、5台の山車が集まる中で笛を吹いていたところ、大勢いる観光客の中からスウィングしている背の高い若い外国の方が見えたんです。それが、ずーーーーっと六軒町のお囃子に合わせてくれていたんですよね。

私の笛に合わせたわけじゃないのかもしれないけど、外国の方にもお囃子のリズムは伝わって喜んでもらえているんだなと思ったら、もう嬉しくて感激しました! こちらもスウィングしている方に向けて笛を吹き続けたのが、本当にいい思い出です。

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山車の上は練習の成果を発揮できる輝かしい舞台

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祭り囃子は、もともと農村に伝わる民俗芸能で、お神楽やお囃子は村々の鎮守に奉納するためのものだった。かつての川越まつりは商家の旦那衆が資金を提供して山車を造り、近在の囃子連を招いて演奏してもらっていた。

しかし第二次世界大戦やその後の混乱、1960年代後半(昭和40年代前半)に訪れた近代化の波により、農家の後継者が減っていき、囃子の伝承も難しくなってしまう。農家による囃子連が次々と衰退していく中で、川越では山車を新調する町会も増え、祭り囃子を町内の人たちで伝承しようと、青年や子どもたちが囃子を習い、山車に乗るようになった。

囃子に携わる人たちにとって、川越まつりは年に一度の大舞台。山車に乗って鍛錬の成果を披露できる、輝かしい晴れの場だ。

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宇津木さん:お囃子の稽古は、どの囃子連も年間を通して週に1度はやっていると思います。昔は2月に寒稽古がありました。農民がお囃子をやっていた時の名残で、農閑期に集まって練習していたのでしょう。

稽古したことは、如実に本番に現れます。テンポが早くなり過ぎては川越のお囃子ではなくなってしまうので、練習のときから太鼓も笛も早くなってはいないか、口伝の文句をきちんと言っているかといった、川越の囃子の特徴を大切に指導しています。

堤崎・王蔵・芝金杉それぞれの流派によって違いはありますが、流派ごとに会を組織して、互いに切磋琢磨する目的で合同練習や意見交換をしたりしているんですよ。コロナ禍以前は、飲み会を開いて交流していました。

お囃子をやってみたいという人の中には、笛を吹きたい、舞をやりたいという明確な希望を持って参加する人もいれば、なんでもいいからお囃子をやってみたいという人もいる。祭りで山車に乗れるって、うれしいですよね。川越の場合はそんな披露の場があるので若い人たちも囃子連に参加してくれています。

私が笛を始めたのは40年以上前ですが、たしか始めて1年後には川越まつりデビューしていた気がしますね・・。「この演目だけ」から始まって。初心者の方は、ベテランと組ませて山車に乗ってもらいますので、安心して参加してもらいたい。

お囃子の練習を通して、結局は一年中川越まつりのことを考えている私たちは、いわゆる「お祭りバカ」ですね(笑)。まぁバカじゃないとできないですが、それだけ心血を注ぎ込みたくなる魅力が、川越まつりには溢れていると思います。