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職方のプライドは山車の数だけ存在する 阿吽の呼吸と技が光る山車さばき

川越まつりの準備と山車の運行には、鳶や大工からなる職方の力が必要不可欠だ。祭り当日は、鳶が山車を曳く中心となり、「端元(はもと)」と呼ばれる山車の周りで気を配っている。

川越まつりで活躍する組頭や鳶方は、祭りの準備や運行においてつつがなく連携がとれるよう、川越鳶組合に所属している。組合の頭取を務める西村建設株式会社の4代目である西村平雪さんに、職方の役割や大切にしていることなどを伺った。

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川越まつりは鳶頭の木遣りに始まり木遣りに終わる

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西村さんは鳶頭として、松江町二丁目(上松江町)の「浦嶋の山車」を預かっている。山車の形式により必要な職方の人数は異なるが、松江町二丁目は足回りに最大で16人、山車の上に4人を配置するという。職方の動きで注目したいポイントはどんなところだろうか。

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西村さん:川越まつりには、ぜひ山車の運行が始まる前に来ていただきたいですね。鳶による「木遣り」(唄)の後、拍子木を合図に山車の曳行を始めます。

山車が道を曲がるところも、鳶が活躍する大きな見どころ。山車の方向を90度以上変える時は、「キリン」という大型のジャッキを使って山車を持ち上げ、方向を転換させます。狭い道路で山車同士がすれ違う時は、山車をバールで回転させて端に寄せ、すれ違ってから元の位置に戻す。鳶同士の技術だけでなく、阿吽の呼吸も大切になってきます。

そして、祭りの興奮が最高潮に盛り上がる「曳っかわせ」。運行中に辻々で山車と山車が出合ったら、鳶頭が拍子木を打ち鳴らします。弓張り提灯を持った双方の曳き手が跳ね、囃子が激しく競演する。そんな中、鳶頭同士は暗黙の了解で道を譲ったり、逆に気を利かせて先に山車を動かしたりするんです。山車の運行状況の調整も鳶頭が行っているんですよ。

午後10時には山車を小屋に納め、鳶頭が「納めの木遣」を唄って仕舞囃子、「シャンシャンシャン、シャンシャンシャン、シャン」と、3、3、1の川越締めで終了。川越まつりは、鳶頭の木遣が山車の曳行の始まりを告げ、木遣で納める祭りだと言えますね。

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長くて太い拍子木と花笠に誇りをかけて

川越まつりの山車は、江戸時代末期に造られたものから平成に新調したものなど、歴史も大きさもさまざまだ。松江町二丁目の浦嶋の山車は1915年(大正4年)に造られたという。町方は山車そのものを、職方は山車を扱う技術とプライドを受け継ぎ続けている。

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西村さん:西村建設の三代目である父(西村甚平)は、祭りでも先代の鳶頭でした。私には、父から受け継いだものが2つあります。ひとつは鳶頭が持っている拍子木、そしてもうひとつが花笠です。

近年はどこも拍子木がコンパクトになりつつありますが、松江二丁目の拍子木は長くて大きい!「 拍子木は単純に音を出すだけのものではない。頭上にかざして目印にしたり、山車が暴走した時に歯止めとして使うものだ」と、ずっと先代に言われてきました。使っているうちに割れてしまうことがありますが、棟梁が新調したものは前よりも長かったりします(笑)。

もうひとつは、昔は祭りの参加者すべてが身につけていたという花笠。70年代前半(昭和40年代後半)の写真を見ると先代も町内の人も花笠をつけていますが、近頃は私くらいしかつけなくなってしまいました。花笠をつけつづけるのは良し悪しではなく、私のこだわり。父を身近に感じられる気もします。

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祭りの山車は「曳かせていただく」心意気

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川越まつりは、もとは城下町にある商家の旦那衆が町民や職人たちに資金を提供し、山車を造り曳くよう依頼する形態だった。現在は町内会と川越市が資金面を担い、職方に準備や曳行を頼んでいる。昔も今も職方がいなければ成り立たない祭りではあるが、西村さんは「驕ることなく、山車を『曳かせていただく』意識を大切にしている」と言う。

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西村さん:一般的な祭りはボランティアで運営したり神輿を担いだりしますが、川越まつりは山車を操る職方に「手間(賃)」が払われます。ですから「川越まつりは本来の祭りの姿とは違うのでは」と他の地域の方から意見をもらうことがありますが、川越まつりの興りを踏まえると、やはりそれは、川越まつりの歴史であり文化であると認識しています。

しかし、先代はこう言っていました。「お金を払う方の町方は『お祭りなんだから少し負けてくれ』、職方は『祭りは特別なんだから、ちょっと色を付けてくれ』と意見が食い違う。そこで職方が大切にするべきは、『これは単なる仕事ではない。“曳かせていただく”という心意気が必要なんだ」と。そして町方は手間を払うけれども「曳いていただく」、そんな気持ちを両者が持つことが大切であると思っています。

川越まつりが終わった翌週の金曜日は鳶組合主催で慰労会を開催するんですが、30町内の会長、市長、来賓、山車の頭がそろう席で、私も先代と同じように「仕事として引き受けてはいるが、単なる仕事としてではなく、曳かせていただくという気持ちでいる」といつもお話しています。町内の持ち物である大切な山車を預かる身ですからね。

逆にこちらからも町方に「一緒に山車を曳いてください」とお願いしています。双方が同じ気持ちを持って山車を曳くことで心がひとつになり、充実した祭りにつながっていくはずですから。

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川越の鳶の想いと伝統を次世代に託したい

現在、山車を保有する町内の鳶頭はすべて川越鳶組合の組合員だ。近隣の市の組合に所属する鳶の人も、川越まつりに際し特別会員として迎え入れた。普段から組合員同士が組合活動や会議を通して状況を把握しコンセンサスをとることが、祭りでの山車曳行をスムーズに行うことにつながるためだ。西村さんはいま、川越の心意気をつなぐ後継者の育成に余念がない。

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西村さん:私が鳶組合に入った1975年(昭和50年)には親子会員含めて120名以上が所属していました。しかし、今はもう62名(2021年11月現在)。もしかしたら、今後は鳶組合が守ってきた山車の曳き方が変わったり、木遣りがなくなったりする可能性もありますね・・。鳶が山車を曳かなくなったら、川越まつりは変わってしまうでしょう。

ある年、納めの木遣りをやって拍子木と川越締めをピタッと揃えて終えた時、観光に来ていた年配の方が「ああよかった、これが見られただけでも川越まつりに来た甲斐があったわ」と喜んでくれたんです。お世辞かもしれないけれど、私もすごく嬉しかった。川越まつりらしさやこだわりが認められるって、気持ちがいいじゃないですか。

私には息子がおり、川越鳶組合のメンバーになっています。川越まつりの木遣だけは代々残しておけよと言いたいし、それが維持できるように組合をサポートし続けるしかない。梯子乗りのような、多くの注目を集める機会を積極的につくって、私たちの想いや技術、伝統を託していきたいと考えています。