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時代の荒波に翻弄されながらも 76年ぶりに完成した山車を誇りに思う

創業から150年以上を数える「勢〆酒店」は、元町一丁目、札の辻と川越市役所の中間に店舗をかまえる。銘酒がずらりと並び、川越のクラフトビールが生で飲めるスペースのある店舗の奥には、代々川越で生きた人々の記録が眠る蔵が建っている。

同店の五代目店主である笠原啓一さんは、川越氷川祭の山車行事保存会会長を務めた人物だ。笠原さんに、元町一丁目の山車制作にまつわる話や、祭りの存在意義などについて伺った。

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「祭りバカ」たちの熱い気持ちが町内を動かした

1893年(明治26年)3月17日に川越の中心部で起きた「川越大火」は、江戸・天保時代から使われ続けてきた多くの山車を焼き尽くしてしまった。元町一丁目(旧・本町)の山車もそのひとつだ。

現在川越まつりで見られる元町一丁目の山車は、1959年(昭和34年)に新しく造られたもの。山車のない状態で祭りに参加せざるを得なかった町内の人々は、他の町内の山車を眺めながら、長きにわたり羨ましくも悔しい思いをしてきたという。

1955年(昭和30年)になってようやく「本町にも新しい山車をつくろう」という機運が高まる。当時20代だった笠原さんの親世代が中心となって計画を進めていった。

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笠原さん:「『川越まつり』の一番古い記憶は4歳の時。皇紀2600年(1940年)を記念して山車が出たこと、大騒ぎしたことを覚えています。奉祝国民歌「紀元二千六百年」もみんなで歌いましたよ。

当時、うちの町内には山車がありませんでした。何度かつくりたいという話は持ち上がっていたようですが、町内の稲荷神社の火災消失・再建、世界的な大恐慌や長い戦争などで、お祭り自体に身が入らない時期が長く続いていました。

潮目が変わったのが、川越が隣接九ヶ村と合併して大川越市になった1955年(昭和30年)。10月に行われた市村合併祝賀川越まつりで各町内の山車が居並ぶ中、本町の人たちは居囃子(山車なしでする囃子)で参加しながら、会所で「山車が欲しいなぁ」とボヤきながら酒を酌み交わしていたのだそうです。

その打ち上げでもやはり同じ話題になり、町内会(当時の親睦会)の長が、「役員会を開いて相談しましょう」と話をまとめてくれました。後日、話し合いでは公民館を建設したいとの要望も上がったそうですが、「それよりも山車をつくりたい」という意見の方が多数を占めたそうです。町内には大人も子どもも一緒になって祭りを楽しみたい、「祭りバカ」が揃っていたということですね(笑)。

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紅白幕も衣装も小物もすべて新調
山車の完成に町内は沸き立った

山車建造が決まった翌月には山車建造委員会が発足、末広町(旧・相生町)の山車を参考に棟梁へ依頼した。同時に寄付金集め、山車に乗せる人形のモチーフについて町内各世帯にアンケートをとっている。料理店や飲み屋街が多いことから弁財天を推す声が多かったが、話し合いの結果、強く、若く、人気のある牛若丸に決定。翌年には秩父神社の御神木の欅を購入し、山車製造を進めていった。

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笠原さん:山車が完成したのは1959年(昭和34年)です。その年の7月に山車倉庫の建築が始まり、10月に受け渡し式を行いました。その後すぐに大工、鳶職、車輪をつくった職人たちの手で組み立てられ、倉庫に収められました。

総欅の木目を生かした白木造り、四ツ車、二重鉾、廻り舞台、唐破風の屋根。長年の夢が形になって目の前に現れた瞬間です。計画、資金集め、職人への依頼やサポートなど、数年にわたって全力を傾け骨を折ってくださった建造委員会の方々、町内会員の方々の感慨の深さは、いかばかりかと思います。

10月12日に山車のお披露目式を盛大に行いました。山車曳き初めの祭りは皇太子と正田美智子さん(現・上皇上皇后両陛下)ご成婚記念の大祭とも重なった日程。当時は3日間かけて祭りを開催していました。

ただ、その時は人形を制作していませんでしたので、代わりに黄金の御幣束(おへいそく・神様への捧げもの)を載せていました。四方幕は赤い地に白く「御祭礼」と染めた幕、後幕には渋い緑色の地に白文字で「本町」と書いたものです。

待望の山車のお披露目とあって、町内はとにかく沸き立っていましたよ。軒端揃えの紅白幕を新調し、町の隅々まで張り巡らせました。町内の顔と言われる方々は紋付き羽織に袴姿、曳手には揃いの手ぬぐいと祭り衣装。女の子は女学生が縫ってくれた紫色の裁着袴に身を包み、職人衆は半纏を新調。ほかにも股引、帯、手ぬぐい、花笠、牛若丸の朱の文字入り白扇などを各々個人負担で新調していますから、気合の入り具合がわかろうというものです。

本町として山車を曳き廻したのは、翌年が最後です。1961年(昭和36年)に川越市は全国に先がけ地番整理を行ったため、本町は元町一丁目となりました。

実はその頃高度経済成長の影響で、世の中は古い価値観を否定する方向に動いていました。日本中でお祭りが下火になった。ですから‘60年代半ばは、川越でも山車をもちいたお祭りは行われていません。残念ながらこの時期、お金に余裕のある家の立派な蔵はどんどん壊され、新築の建物に変わっていってしまいました。

牛若丸の人形がつくられることが決まったのは、「復古調」という言葉が広まり、古いものを大切にするムーブメントが広がった1969年(昭和43年)です。5年ぶりに復活した川越まつりで奮起し、山車の時と同じように即決断・製作を経て、翌年には無事、牛若丸を山車に乗せることができました。

2014_山車

本町が山車を失ってから実に76年を経て、ようやく実現させた悲願です。時代に翻弄されたことも一度や二度ではありませんでした。山車について改めて思い起こし、実に誇らしい気持ちでいっぱいです。

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木遣りの声と月の輝きが印象的な祭りの夜

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笠原さんの奥様である春子さんは、埼玉県比企郡川島町出身。笠原さんと結婚してからは勢〆酒店の女将としての役割を果たしつつ、3人の子どもを産み育てた。「子どもたちはお祭りが大好き! みんなお囃子をやりました」と、うれしそうに話してくれた。

2013?_店先1

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春子さん:川越まつりはもちろん子どもの頃から知ってはいましたが、主人と結婚してからグッと身近になりました。長女が幼稚園に入ったばかりの頃、山車を見て「私も曳きたい」と泣くくらい、お祭りに惹かれたようですね。慌てて半纏を買いに行って、無事に山車行列に加えてもらった思い出があります。

1992_川越まつり集合写真

例年、祭りの当日は5時に起床、赤飯を炊いたり煮物をつくったりしながら、子どもたちの着付けをします。その後は終日、お店に途切れることなくいらっしゃるお客様を相手に喋りっぱなし、立ちっぱなし。

このお店は市役所の通り沿い(本町通り)にあってすべての山車が目の前を通るので、いろんな方が立ち寄ってくださるんです。身体は疲れますが、町内の方はもちろん、昔の友だちや子どもたちの友だちが来てくれるのが、本当に嬉しくて、楽しくて。また、日本中からお客様がいらっしゃるので、いろんなお話が聞けるのも面白いですね。

結婚してからの川越まつりはひたすら忙しい記憶ばかりですが、印象的なのは、夜、祭りが終わるときに聞こえてくる木遣と拍子、拍手の音。外に出て、ふと空を見上げるとお月さまが天高くにあるんです。毎年、祭りを無事終えられた充実感とともに、その情景が深く心に焼き付いています。

川越まつりは、子どもから大人までみんな一緒に山車を曳けるお祭りです。町内の子どもたちと大人が、囃子の練習や山車を曳いたりすることで顔見知りになる。おじいちゃんやおばあちゃんが、子どもの振る舞いに対して「こういうことはしてはいけない、こうだよ」と教えてくれるところもよく見受けられます。

ですからこの地域で育った子どもは不良になりにくいですよね。祭りは楽しいだけでなく、情緒や思いやりの心を育てる精神面の育成にも、一役買っているのではないでしょうか。